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1.アントリム州で3人の子供がロイヤリストの爆弾で殺された
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1.アントリム州で3人の子供がロイヤリストの爆弾で殺された 7月12日日曜日の早朝、アントリム州バリモニー(Ballymoney)の家に対する派閥主義者の攻撃で3人の幼い子供が亡くなった。これはドラムクリー(Drumcree)阻止が続いた8日目のことだった。 アントリム州バリモニー市カーナニー(Carnany)のロイヤリストが多数を占める地域で、カトリックのクリスティン・キン(Christine Quinn, 29歳)と、プロテスタントの夫レイモンド・クリーグ(Raymond Craig, 31歳)の家に、午前4時30分ごろ、火炎瓶が投げ込まれた。近所の人が大きな爆発音を聞いたとき、奥の居間で爆発が起こって、家が炎で包まれた。消防車はすぐに到着したが、家は激しく燃え上がっていた。 夫婦の4人の子供のうち家にいた3人、リチャード・キン(Richard Quinn, 10)、マーク・キン(Mark, 9)、ジェイソン・キン(Jason, 7)が炎の中で死んだ。長男のリー(Lee)は数マイル離れたアントリム州ラシャーキン(Rasharkin)の祖母のところにいた。両親は家から逃れ、クリスティン・キンは病院で軽傷とショックの治療を受け、レイモンド・クリーグは手術を受けた。どちらの親も家に戻って子供たちを救おうとしたが、現場にいた消防士がいう「獰猛な炎」に阻まれた。消防隊員が呼吸装置を使って子供たちのところになんとかたどり着いたとき、すでに炎にやられてしまっていた。 地元の人たちは、派閥間の緊張がこの地域で高まったのは、ドラムクリー阻止の始まりからであり、ナショナリストの家族の中には郵便受けに弾丸が送られてきたところもあるという。キン一家はカーナリー地区に20年間住んでおり、過去にロイヤリストのターゲットとなっていた。彼らは6州を離れ、安全になったと思われた去年戻ってきたところである。そのときから一家は威嚇を受けており、引っ越しをしようとしていたと親族はいう。過去にも地区のいろいろな場所へ引っ越したが、どうしても威嚇を逃れることはできず、あるときにはレイモンド・クリーグがロイヤリストに狙撃されている。子供たちの祖母、イレーヌ・キン(Irene Quinn)は、先週、その場所を離れるように銘じられ、その家が火炎瓶攻撃を受けた。匿名希望の地元の人によると、残っている数人のカトリックに出ていくよう地元のロイヤリストが脅しをかける叫び声と走り回る音が、先週は毎晩、この地区にあったという。 子供たちはプロテスタントとして育てられたが、母親は7月14日火曜日に、彼女の故郷であるラシャーキンにカトリック式の埋葬をすると決めた。 *ベルファストの下Ormeau通りに住む遺族の住人に気を配る印として、7月13日月曜日にその地域を通るオレンジ行進の経路はふさがれなかったが、その代わりに、オレンジ結社員が通るとき、静かに、黒旗が抗議として掲げられた。
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2. バリモニーの悲劇は英国失政の結果 「スィールシェ――アイルランドの自由」は、1998年7月9日発売号の社説で、ナショナリストはドラムクリー阻止が続くことに対して高価な代償を払わなければならないだろうと述べた(下記の記事参照)。この予言は不幸にも、7月12日日曜日のアントリム州バリモニーのカーナニーのキン一家への放火攻撃という形で立証されてしまった。これは、リチャード(10)、マーク(9)、ジェイソン(7)の死に及び、宗教の入り交じった家族へのロイヤリストによる攻撃によって亡くなったのだった。共和主義シン・フェイン党は、ひどく失われた子供たちについて、その家族に心からお悔やみを申し上げる。 この恐ろしい事件は、過去に何度も起こりえたものだ。数千のナショナリストの家庭が、さまざまな宗教の人のいる家庭同様、ロイヤリスト暗殺隊によって火炎瓶攻撃されてきた。IRISはこれらの事件を毎週報告し、ほとんどの場合それは幸運にも死傷者を出さずにすんできた。これらの攻撃は真剣に受け取られていなかった。先週、ロイヤリストは6州全域でナショナリストの家庭に130回以上の放火を試み、その地の英国住宅当局は70以上のナショナリストの家族を引っ越しさせているところだった。 25年前、4万人のナショナリストが、カリックファーガス(Carrickfergus)とベルファストの間にあたる東アントリムのロイヤリストが多数を占める地域に住んでいたと報告されている。現在は約5000人にまで減っている。ナショナリストが少数派である地域では、民族浄化の一貫した政策があった。この地域に住むナショナリストの人口を減らすために使われた方法は、威嚇、投石、武装ギャングによる火炎瓶攻撃、英国に支援されたロイヤリスト暗殺部隊による殺害であった。ベルファストのRathcooleとBallyhackamoreのような地域は、過去数年でナショナリストが一掃された。6州で混合教育を呼びかけた多くの人たちは、宗教を越えた関係を作った人々が殺されたり、家で脅されたりしたときに、影響力を失った。 共和主義シン・フェイン党は、現在のプロセスはアイルランドに平和をもたらさないと述べた。なぜなら、それは対立の根を抜き取っていないからだ。プロセスは、オレンジ・ステートの派閥主義の性質も解決しない。新しい議会はデヴィッド・トリンブル(David Trinble)首席大臣と、シェームス・マロン(Seamus Mallon)副大臣を7月1日に選出したが、彼らはドラムクリー阻止とそれに続いて起こったロイヤリストの暴力に直面しても無力であった。デヴィッド・トリンブルとシェームス・マロンは3人の幼い子供が亡くなるまで、ドラムクリーにいるオレンジ結社員に対して解散するよう公的に頼まなかったのである。 Garvaghy通りの人々と、占領された6州全域のナショナリストに身代金を要求し続けてきた偏狭なオレンジ結社員たちは、英国政府によって優しく扱われてきた。彼らはドラムクリーに数千人が集まることを許されたが、食物・医薬品その他の必需品をGarvaghy通りの包囲された人々に運ぶための護衛隊は、英国王室軍によって三度検問を受け、極めて必要な物資のなかにも没収されたものがあった。彼らはなぜドラムクリーにそんなに集まることを許されたのか? もしそれがナショナリストの抗議であったならば、英国軍とその植民地警察(RUC)が躊躇なく解体のために投入されたであろう。1996年、1300人のオレンジ結社員がGarvaghy通りを押し通ることができるよう1000人のRUCを英国政府が使ったあと、抗議するナショナリストは通りから引き離され、それから続いた6州全域でのナショナリストの抗議に対しては6000発のプラスチック弾が発砲された。"Irish Times"(ダブリン)は、7月4日日曜日から7月10日までの事件のリストを発行している。1867件の騒擾事件、15回の発砲事件と33回の爆弾攻撃を含む英国王室軍への55回の攻撃、151人が騒擾事件で逮捕、53人のRUCが傷つき、548回の火炎瓶攻撃、1901個の火炎瓶撤去、103の建物損壊、また133の建物損壊、367の乗り物攻撃があった。終末までの表は出ていないが、この表よりかなり増えているだろう。7月9日までだけでも、216発のプラスチック爆弾がロイヤリストに発砲された。 先週、ストーモント合意は完全に不適当であったことが証明された。共和主義シン・フェイン党が言っていたように、それは平和をもたらすものではない。何の問題も、特に英国駐留という問題について、触れていないからだ。ドラムクリー阻止は、権力と、それを振う者についてのものである。英国がアイルランドを離れ、島のすべての人がともに新しいアイルランドを建設するまで、行進の季節は、派閥主義のロイヤリスト分子によって、占領された6州のナショナリストを統制する英国支援を導いてくるために使われるだろう。 付け加えて、ドラムクリー阻止の間に、ナショナリストに対して声高に呼びかけてきた平和列車組織から何も聞かれない。なぜ彼らは、ドラムクリーでのオレンジ結社阻止を終わらせるために「平和列車」をポータダウンまで走らせないのだろうか?
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3.ドラムクリー阻止:ナショナリストは代償を支払わされるだろう 「スィールシェ――アイルランドの自由」が7月9日木曜日に発行されたとき、ドラムクリー阻止は五日目であり、オレンジ結社とロイヤリストは、ポータダウンと6州全域のナショナリスト住人に対する威嚇と抑圧のキャンペーンを強硬に強めてきた。 英国政府は、1995年と1996年に保守党がやり、1997年にトニー・ブレアとモー・モーランが(さらに迅速に)やったとおり、4年目にして英国政府はオレンジ結社の脅威に屈することにしたようである。 オレンジ結社の暴力行為に英国が屈服した結果は、再び、ナショナリスト社会が代償が払わなければならないことになるだろう。彼らの地域を通るようオレンジ結社がパレードを強行することに反対するなら、家の外で英国国王軍によって打ちのめされるであろう。彼らは、誰が攻撃しているかを示すため、長期にわたって家の中に軟禁状態に置かれるだろう。 Garvaghy通りその他のすべてのオレンジ結社のパレードが行なわれるナショナリスト地域の問題は、権力と統制の問題として歓迎されないものである。オレンジ結社は居住者に、その権力がGarvaghy通りに広がることを求めさせようとしているようだ。 7月12日のアプローチで作られた圧力は、1996年、6州が4日間機能停止させられ、メージャー政府が没落したときのものと同じである。オレンジ結社員が6州全域からドラムクリーへと訪れることを認めるなどの緩和は、阻止している英国軍とRUCが共犯であることを示している。 同様に、オレンジ結社員は道路封鎖、運転者威嚇を行ない、数時間でも英国警察官から干渉されずにナショナリストが仕事や店に行けないようにしている。オレンジ結社員は結局「後押し」しているのである。しかし、ナショナリストの抗議イベントの場合、英国はオレンジ結社員に屈して優しい扱いをしている。ナショナリストは杖で撃たれ、プラスチック爆弾が殺害のために向けられ、装甲車が通りにいる群衆に高速で突っ込んでくる。 また、1996年の阻止と同じように、英国政府による4年目の譲歩に対するナショナリストの抗議に対応する意図で、1800人の特別英国部隊(合計で18000人になる)の到着があった。 7月1日〜2日の夜の、10のカトリック協会に対する共同・同調した攻撃は、ロイヤリストの抗議の背後に誘導する手引きがあったことを示している。モー・モーランが知らないふりをして、ロイヤリスト暗殺部隊関与の「証拠」を探したとしても、だれもだまされしない。 ストーモント議会にいる護憲ナショナリスト政党の役割は、試すに値する。SDLPは、GGarvaghyの住人が、その地域を通る「記念」パレードを認めさせようとした。これは、イアン・ペーズリー(Ian Paisley)とデヴィッド・菟リンぶるが手に手を取ってポータダウンの通りで意気揚々と踊るという結果に終わった1995年の「妥協案」である。トリンブルは、この道化の結果として、UUPの指導者の地位を得たのである。ストーモントのシェームス・マロン「副大臣」は、7月7日、別の同様な「妥協案」をGarvaghyの住人に押しつけようとしたことで、反発をくらい、バカにされた。 暫定派は、ナショナリスト住民を防御することを英国国王軍に「提案」しようと1969年4月に主張した「因習派(Officials)」という先達に戻ってしまったことを自ら証明した。1998年7月、暫定派は同じように、「英国軍とRUCが扱えるように」ナショナリストが通りから退くように告げている。 ナショナリストは、再び分派状態の代償を支払わされている。そしてトニー・ブレアの平等という談話のすべては、彼が戻ったときに暴露されることになろう。 1998年のドラムクリーは、英国支配のどんな再配置も落ち着いたりはしないことを証明している――1973年のサニングデール、1998年のストーモント合意――それは恒久平和をもたらしているのではない。分派指導者に依存する分派状態をうち立てているのであり、オレンジ結社員は彼らの望むとおりにいつも数が加算されると知っている。1998年に再びオレンジ結社員が勝つことで、彼らはナショナリストへの圧迫を保つだけでさらなる譲歩を勝ち取ることができるという明らかな結論を引き出すことになるだろう。 これは、ストーモント合意がよって立つ、非常に腐った基盤である。速やかにそれを壊すならば、私たちすべてにとってよい結果となるだろう。
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4. ドラムクリー阻止は続く ポータダウンのオレンジ結社員は、7月5日日曜日にナショナリスト地区のGarvaghy通りを行進する許可を得られなかったときからやってきたように、7月12日日曜日、ドラムクリー周辺地域を占領し続けることに決めた。アントリム州バリモニーのカーナニー地区の家がロイヤリストによって放火攻撃され、3人の幼い子供が殺されるに到った阻止を受け入れるよう呼びかけられたにもかかわらず(上記の第1話参照)。 アイルランド大司教Eamesの教会は、オレンジ結社員に、ドラムクリーにあるアイルランド礼拝堂教会での抗議を中止するよう呼びかけた人の一人だった。ストーモント「首席大臣」デヴィッド・トリンブルと「副大臣」シェームス・マロンもまた、オレンジ結社員に、アルマー州オレンジ結社大牧師ウィリアム・ビンガム(William Bingham)がやったように阻止を終わらせるよう呼びかけた。しかし、アイルランドのグランド・オレンジ・ロッジは、ドラムクリーでの「平和的で威厳のある」抗議を支援すると述べ、ポータダウン地区のスポークスマンのデヴィッド・ジョーンズがいうには、オレンジ結社ポータダウン地区は「伝統的な経路でカールトン通りにあるオレンジ・ホールに戻る道 [すなわち、Garvaghy通り] が通れるようになるまで、ドラムクリーに居続ける」ことを決定した。Garvaghy通り住民共同体のスポークスマン、ブリャンダン・マクショナハ(Breandan Mac Cionnaith)は、ドラムクリーにとどまるという決定は、ポータダウンのオレンジ結社員が完全に「誰のコントロールも受けない」ということを示している、と述べた。 7月10日金曜日、英国首相トニー・ブレアは、閣僚の一人ジョナサン・パウエル(Jpnathan Powell)が召集したいわゆる「近接対話」を開始した。7月11日に開かれたこれらの対話は、合意された場所と協議内容での、ポータダウンのオレンジ結社員とGarvaghy通り住民共同体からの代表からなる会議で、別々の部屋にとどまったままの二つのグループの間を「取り持つ」「促進者」をとおして、この難局を終わらせようというのである。 「近接対話」は、少々遅れて土曜日に始まった。ここでGAAの元代表ピーター・キン(Peter Quinn)がナショナリスト側の促進者となり、ロイ・マギー(Roy Magee)牧師がユニオニスト側の促進者となった。 しかし、「対話」はいかなる合意もないまま解体し、7月11日午後11時、Garvaghy通りの住人は代表からの報告を聴いた。オレンジ結社が提出した提案は、3つのバンドを伴って(1400人ではなく)1000人のオレンジ結社員が通りを進むことを認めろというのも含まれていた。別の提案では、Obins通り地域(ポータダウンのトンネル地域、小さなナショナリスト飛び地)を歩くというもので、その地域は倫理的にまずいということで1985年当時に英国政府によって禁止されたところである。Garvaghy通り住民共同体は、オレンジ結社が彼らに敬意を払わないことに遺憾の意を表明し、パレード委員会の決定を実行するよう、またGarvaghy通り共同体の包囲を解くよう、英国政府に求めた。 これらの「対話」が進んでいるあいだ、ポータダウンのオレンジ結社員は、RUCと英国パレード委員会に、7月12日にGarvaghy通りで別の行進を行なうと届け出た。この要求は、28日間の法的条件を満たしていないということで拒絶された。アルマーのオレンジ結社の州グランド・マスターのデニス・ワトソン(Denis Watson)、オレンジ牧師ウィリアム・ビンガム、暫定派情報提供者ショーン・オカラーン(Sean O'Callaghan)が先週、ポータダウンのシーゴー・ホテル(Seagoe)で会い、7月10日にはポータダウン地区ロッジのオレンジ結社スポークスマンのデヴィッド・ジョーンズ(David Jones)が英国首相トニー・ブレアに、「ドラムクリーが血の日曜日にならないように注意せよ」と、落下傘部隊をドラムクリーに投入するよう警告したと報道されている。 7月9日、"Belfast Telegraph"紙の社説が、もしナショナリストが妥協できなければ、英国政府はオレンジ結社員にGarvaghy通りを押し通させるよう要求した。住民共同体のスポークスマン、ブリャンダン・マクショナハは、"Belfast Telegraph"紙はGarvaghy通りの状況について何も知らないと述べた。オレンジ結社がその通りをパレードしてはならないという決定を受け入れなかったがために、すべてが台無しにされたからもう一度やり直さなければならないと信じたのであり、一方で、食物と供給品の輸送隊がGarvaghy通りのために組織されなければならなかったのは、道路が封鎖されたときのためである、と彼は述べた。 Garvaghy通りのナショナリスト住民は、8日間にわたって包囲されている。その間、人々は仕事場や店の場所に出入りするにも困難を経験せねばならなかった。彼らはロイヤリストの威嚇と英国国王軍からの濫用の双方に屈してきた。7月行進の第12日のあと(これは7月13日、12日は日曜日と重なっていたので)、多くのオレンジ結社員がドラムクリーに終結するおそれがあり、ナショナリストの人々は包囲され続けることになるだろう。英国政府は悪化しつつある状況に関与することを拒否しているからである。
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5. 広い威嚇の網 英国国王軍の中の同僚の援助がある英国びいきの暗殺隊は、ドラムクリーの丘でのおとりとしてオレンジ結社が同盟行為を行なっているあいだ、6州じゅうで民族浄化運動に乗り出した。 作戦における計画の広告は、すでに7月7日火曜日、ケニー・マクリントン牧師(Kenny McClinton)によって作られていた。この人物は、殺人の罪で16年間の懲役を受け、現在LVFと関係を持っている。カマキリの信仰心によって、マクリントンは「気球を上げろ」と警告し、「ロイヤリスト愛国戦線、プロテスタント自由戦士、プロテスタント反動軍、アルスター・ロイヤリスト活動軍」と彼の呼ぶ英国びいき暗殺部隊について述べた。 彼は、「この州の最悪の事態」をおそれると述べた。暗殺部隊は停戦中であるとされており、有名な名前を使うことがよろしくないと思われるときには、カバーネームを使うという。 その間、UVF暗殺部隊の中部アルスター旅団は、ドラムクリーにいる王国軍の手によってオレンジ結社員が一人でも死んだら、「戦争行為と見なされるであろう」と警告した。ナショナリストは、占領されたアイルランドを横切って、この英国びいきのオレンジ・クリスタルナハト(Kristalnacht)から出ていくことを強制されてきた。 ラーガン(Lurgan)のコリンウッド(Collingwood)地区の住民は、7月8日早朝、家に火炎瓶で放火する30人のロイヤリストからの包囲を受けた。二軒がひどく損なわれ、オレンジ右翼が釘と火炎瓶と弾丸を発射したためにショックを受けた。 ロイヤリストのモーネヴュー(Mourneview)地区との境界地域の住民は、オレンジ結社に「理解してほしい」と要請してきた。「オレンジ結社は、自分たちはそれに関係がないけれども、まさに自分たちの双肩にかかっている、と述べた」と、自分の燃え上がる家に駆け込もうとして狭心症を患ったショーン・ドウズ(Sean Dows)はいう。 ナショナリストの学校は、7月8日に放火犯の標的とされた。ベルファストでは、Ardoyne通りの聖十字女子小学校の門から一台の車が突入して炎上し、いくらか損害を起こした。ラルネでは、聖アントニー小学校が、窓から注ぎ込まれた可燃性の液体でいくらかの損害を起こした。東ベルファストでは、ロイヤリストの群衆の攻撃を受けて、ホームレスのための宿泊所が損害を受けた。 また7月には、GarvaghとLurganにある家に火炎瓶攻撃があった。Lurganでは、住民が心臓発作によって病院に送られた。ダウン州Lisburnの聖ヨセフ小学校は、学校へペンキと火炎瓶を投げるロイヤリストの群衆の襲撃を受けた。 7月11日には、北ベルファストで3人のナショナリストが狙撃事件でけがをした。その一人は、膝を撃たれて重態であるとされ、もう一人はすりむいたという。その会社の若者が足に軽傷を負った。 6州の町や村じゅうで、オレンジ結社のちんぴらが暴れ回っているため、ナショナリストは生命の危険を感じている。カリックファーガスのある家が7月11日に火炎瓶攻撃を受け、同日、Birchhill公園の家に弐度目の火炎瓶攻撃を受けた家族が、27年住んだ家を離れることになった。アントリム州ホワイトヘッドでは、火炎瓶が10発、アイランドマギー通りのUlidia総合学校に投げつけられた。攻撃で何枚かの窓が破れたが、数発しか点火しなかった。7月11日にはCraigavonで、エニスキーンの家の窓から投げ込まれた爆発物が台所に広い損害を与えた。 現在も数人がストーモントの植民地議会に議席を占めている私たちの妥協者たちは、オレンジ結社のファシストが大胆になるまでこの状況をひどくした。過去、私たちは、暴君との妥協は暴君を強化する、と述べた。自由な連邦制アイルランドにおける平等のなかでの和解こそが真の解決を行えるのである。
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6. 6州でナショナリストが包囲されているさなかにマキャリースはオレンジ結社員をもてなす 26州大統領、メアリ・マキャリース(Mary McAleese)は、自分自身もベルファスト出身のナショナリストで、実家は1970年代にロイヤリストによって焼かれた人間だが、ドラムクリー阻止が続く7月11日日曜日の午後、ダブリンの邸宅に100人以上のオレンジ結社員を招く公式行事を開いた。 130人が歓迎会に参加し、そのなかには26州のなかの8州からのオレンジ結社員もいた。6州からは招かれなかった。歓迎会には、英国大使ヴェロニカ・サザーランド(Veronica Sutherland)も出席した。マキャリースがオレンジ結社員を自分の邸宅に歓迎するという飾り帯が置かれ、彼らの一人はオレンジのユリを身につけていた。 マキャリースの代弁者が「これは北に関係はな」く、6州じゅうのナショナリストへの広範囲に及ぶ威嚇、混乱、攻撃に直面しても、彼女は歓迎会を開いたことを公開しないだろう、と述べた。ジャーナリストのAnne Cadwalladerは、"Ireland on Sunday"紙(7月12日付)でこう述べている。マキャリースの招待は、「あまりにも時期を逸し」ており、ナショナリストにとってオレンジ結社の行進は「統治の醜悪な見せつけであり、儀式化された侮辱」である、と。
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7. カトリック教会が攻撃の波によって炎上 占領下アイルランドの抑圧された人々は、英国びいきの暗殺部隊が古い分割と占領作戦を展開するあいだ手をこまねいて見ているだけの監督者を選ぶ選挙権を与えられてきた。 辛抱強いナショナリスト住民は、7月2日早朝にカトリック教会が攻撃されたとき、またもや試練にさらされた。最もひどく被害を受けたのがベルファスト近郊のAldergroveの聖ジェームズ教会で、深夜の攻撃のあとに、冒涜的な砲撃を受けた。アントリム州リスバーン近郊のKilcorigにある聖ジョセフ教会と、ダウン州Castlewellan近郊のリートリムにある処女懐胎教会は完全に中身が引きずり出された。 英国のパレード委員会がオレンジ結社のパレードをナショナリスト地区Garvaghy通りから変更するようなとき、北アントリムLVFは「破壊旅行」方針を通例としていることがわかっている。 オレンジ結社のブーツ・ボーイズがドラムクリーの野にキャンプすることが認められたとき、英国びいきの暗殺部隊と同盟を結んでいる極右連中が現実の損害を与えているあいだのおとりとして、自ら役立ったわけである。英国軍事諜報部によって先導されたこの燃え上がる憎悪において、ティローン州上Newtownards通りの聖Colmcille教会は燃焼と煙の損害を受けた。ドロモアのブラックスカルにある平和のマリークイーン教会は炎上した。ティローン州Mullavilly Tandrageeの教会の屋根は燃えた。ティローン州ダンガノンのクランモア通り聖コロンバ教会は煙と水の損害を受け、ダウン州バンブリッジのグレン通りグレン教会は軽い損害を被り、ティローン州ダンガノンのキリマン教会は焼けこげてしまった。 ダウン州のキルキール近郊のグランジにあるLurdes聖母教会への侵入者は、警報装置をならしてから逃げた。
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8. HARRYVILLEのピケットがBallymenaで再開 20か月にわたって言葉と肉体的暴力をふりまいているアントリム州バリーメナのハリーヴィルに大量の人が集まることを目的としている「ドラムクリーの精神」グループは、威嚇トラックに引き返した。 Dunloyを通るアプレンティス・ボーイズの行進を認める決定後、ピケを5月に中止したこのグループは、英国パレード委員会がドラムクリー行進の進路変更決定を覆すまで、ハリーヴィルで聖母教会の外で抗議運動を続けることを決定した。「ドラムクリーの精神」代弁者ジョエル・パットン(Joel Patton)は、その決定は5月30日のグループの緊急会議で決まったといっている。
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8. カトリック教会が攻撃の波によって炎上 占領下アイルランドの抑圧された人々は、英国びいきの暗殺部隊が古い分割と占領作戦を展開するあいだ手をこまねいて見ているだけの監督者を選ぶ選挙権を与えられてきた。
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9.ラーガンの若者たち、RUCに投石する アルマー州ラーガン(Lurgan)のキルウィルキー(Klwilkie)ナショナリスト地区では、6月28〜29日、地元の若者と英国植民地警察(RUC)との間に激しい戦闘シーンが展開された。王国軍は夜中にこの地区に移動し、それはアルマー州地区で進行中の警察作戦と説明された。 英国軍とRUCの混成突撃隊員がドアを蹴破るや否や、住人はベッドから引きずり出されて脅された。その日のあいだじゅう、2機のヘリコプターが脅かすように上空に滞空し、その間に占領軍が地区に到る湖岸通りに押し寄せた。捜索によって、エニス・クロースのある家の裏手の石炭燃料庫に、強力なSemtexが4ポンドあることがわかった。
意義を唱える者が50人ほどに増えると、若者たちは支援された攻撃の中で王国軍に攻撃した。 およそ60の火炎瓶が、英国軍/RUC軍とその乗り物に乗せられ、占領軍が撤退し始めたのは午後6時だった。妨害のため、リズバーンとポータダウン間の鉄道路線が閉鎖された。
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10.共和主義者一家への危険な攻撃 6月28日日曜日の午後11時20分、暫定派はデリー市のドネリー一家を攻撃するために5人の党員による市民軍を派遣した。 マイケル・ドネリー(Michael Donnely, 49歳)、その妻マルティナ(Martina, 47)と、二人の子供、ニアヴ(niamh, 10)とケーヴ(Caoimhe, 6)は、午後11時10分に帰宅した。その5分前、彼らは英国植民地警察(RUC)の警察官に止められ、その夜の動きについて詳細に、とくにすぐに家に帰るつもりなのかどうか尋問された。続く攻撃について、マイケルの息子ジャグラーン(Deaglan,22歳)はSAOIRSEにこう語った。
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11.マクギネス、マーティナ・ドネリーにねじ込まれる 襲撃の次の夜、マイケル・ドネリーの妻マーティナは、プロヴィジョナルのデリーでのリーダー、マーティン・マクギネス(Martin McGuinness)に立ち向かった。マーティナは許しを乞いに来たのだろうと考えて、マクギネスは無邪気にもマーティナを家に招き入れたが、そうではなく、その玄関口で公然と、彼女は自分の家族への過激派襲撃について質問した。 マクギネスは戸を開けたが、マーティナとわかって廊下に後じさった。マーティナが、貴党の5人がなぜ子供たちや夫を鉄の棒や釘の打たれた野球バットで襲ったのか、と尋ねると、マクギネスは一言、「私はそこにいなかった」と答えた。 彼はそれから進み出た。それは、目撃者によると「すっかり怖じ気づいて」というふうにであった。そして、マーティナの顔を指さしたのである。それから「あんたの旦那は、この町中でこの12か月、反逆者と呼んできたんだ」と言った。 ちょっと間をおいて、マーティナは言った。「ああ、だからやったのね」。マクギネスはこの告発を否定しなかったので、マーティナは言った。「わかりました。それがあなたのすべてね、マーティン。裏切り者で内通者。水曜日には、あなたは英国の議会で政府と一緒に座るんでしょ。実際、あなたはそこで英国政府の一部になるのよ」。 マクギネスは答えた。「声を落とせ。子供が中にいるんだ」。その妻のバーニー(Bernie)が叫ぶ。「ちょっと、扉を閉めてよ」。マーティナはそれから尋ねた。「私の子供たちはどうなるの? あなたは5人の覆面男を送り込んで、子供たちの目にガスをスプレーし、子供たちとその父親を痛めつけたのよ」。マクギネスは宣告した。「私はこれを聞いていないからな」。そして、扉を荒々しく閉めたのである。 マーティナはそれから開いた窓越しに大きな声で、「子供いじめ」「内通者」と繰り返し、そして述べた。「あなたは水曜日に連中のための役割を演じることは確かなんですよ」 7月1日水曜日、プロヴィジョナルがドネリー一家を攻撃した3日後、マーティン・マクギネスは、ストーモントにおける英国の議会に署名し、今や植民地議員となったのである。
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12.プロヴィジョナル、さらなる脅威を示す ドネリー一家に対するプロヴィジョナルの危険な攻撃以来、一家は英国植民地警察(RUC)とプロヴィジョナル警察に悩まされている。この嫌がらせは、その正体が共和主義シン・フェイン党にははっきりしている女性による脅迫電話なども含む。 ジャグラーン・オドネール(Deaglan O Donghaile)も脅しを受け、その一つはCregganのプロヴィジョナル事務所から来た二人の人物によるものである。 もし攻撃を実行すれば、「ジャグラーンは歩こうと思わなくなるだろう。しかし、彼はどちらにしろ次なのだから、問題ではない」と彼らは述べた。 停戦軍人はどちらも、マイケルの子供たちが催涙ガスをスプレーされて打ちのめされたという事実を喜び続け、「こうなって当たり前だったんだよ」と言ったのである。
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終わり。IRISの情報を広めてください。転載する場合は私たちのクレジットを入れてください。
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