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謀反論 徳富蘆花

明治四十四年二月一日 第一高等學校に於る講演草稿。
この講演は芥川龍之介らも聞いた。

 

 僕は武藏野の片隅に住むで居る。東京へ出るたびに、青山方角へ往くとすれば、必ず世田ヶ谷を通る。僕の家から約一里程行くと、街道の南手に赤松のばらばらと生へた處が見える。此は豪徳寺{がうとくじ}――井伊掃部守直弼{ゐいかもんのかみなほすけ}の墓で名高い寺である。豪徳寺から少し行くと、谷の向ふに杉や松の茂った丘が見える。吉田松陰の墓及び松陰神社は其丘の上にある。井伊と吉田、五十年前には互に倶不戴天{ぐふたいてん}の仇敵{きうてき}で、安政の大獄に井伊は吉田の首を斬れば、桜田の雪を紅に染めて、井伊が浪士に殺される。斬りつ斬られつした兩人も、死は一切の恩縁を消してしまって谷一重のさし向ひ、安らかに眠って居る。今日の我らが人情の目から見れば、松陰はもとより醇乎として醇{じゅん}なる志士の典型、井伊も幕末の重荷を背負って立った剛骨の好男兒、朝に立ち野に分れて斬るの殺すのと騷いだ彼等も、五十年後の今日から歴史の背景に照して見れば、畢竟今日の日本を造り出さんが爲に、反対の方向から相槌を打ったに過ぎぬ。彼等は各々其位置に立ち自信に立って、爲{す}るだけの事を存分に爲て土に入り、其餘澤を明治の今日に享{う}くる百姓等は、さりげなく其墓の近所で悠々と麥のサクを切ってゐる。

 

 諸君、明治に生れた我々は五六十年前の窮屈千萬な社會を知らぬ。斯の小さな日本を六十幾箇の基盤に劃{しき}って、一寸隣へ往くにも關所があったり、税が出たり、人間と人間の間には階級があり格式があり分限があり、法度{はっと}でしばって、習慣で固めて、苟{いやし}くも新しいものは皆禁制、新しい事をするものは皆謀叛人{むほんにん}であった時代を想像して御覽なさい。実にたまったものではないではありませんか。幸にして世界を流るゝ大潮流の餘波は、水門を乘り越え潛{くぐ}り脱{ぬ}けて滔々と我日本に流れ入って、維新の革命は一擧に六十藩を掃蕩し日本を擧げて統一國家とした。其時の快豁{くわいくわつ}な氣持は、何ものを以てするも比すべきものが無かった。諸君解脱{げだつ}は苦痛である。而して最大愉快である。人間が懺悔して赤裸々として立つ時、社會が舊習をかなぐり落して天地間に素裸{すっぱだか}で立つ時、其雄大光明な心地は實に何とも云へぬのである。明治初年の日本は實に初々{うひうひ}しい此解脱の時代で、着ぶくれてゐた着物を一枚剥ねぬぎ、二枚剥ねぬぎ、素裸になって行く明治初年の日本の意氣は實に凄じいもので、五ヶ條の誓文が天から下る、藩主が封土を投げ出す、武士が兩刀を投出す、……………… 自由平等革新の空氣は磅磚{ばうはく}として、其空氣に蒸された。日本はまるで筍{たけのこ}の樣にずんずん伸びて行く。インスピレーションの高調に達したといはうか、寧ろ狂氣といはうか、――狂氣でも宜{よ}い――狂氣の快は不狂氣者の知る能はざる所である。誰が其樣な氣運を作った乎。世界を流るゝ人情の大潮流である。誰が其潮流を導いた乎。我先覺の志士である。新思想を導いた蘭學者にせよ、局面打破を事とした勤王攘夷の處士にせよ、時の權力から云へば謀叛人であった。彼等が千荊萬棘{せんけいばんきょく}を渉った艱難辛苦{かんなんしんく}――中々一朝夕に説き盡くせるものではない。明治の今日に生を享くる我等は十分に彼等が苦心を酌んで感謝しなければならぬ。

 

 僕は世田ヶ谷を通る度に然{しか}思ふ。吉田も井伊も白骨になって最早五十年、彼等及び無數の犧牲によって與へられた動力は、日本を今日の位置に達せしめた。日本も早や明治となって四十何年、子供で無い、大分大人になった。明治の初年に狂氣の如く駈足で來た日本も、何時の間にか足もとを見て歩く樣になり、回顧もする樣になり、新日本の統一こゝに一段落を劃した觀がある。維新前後志士の苦心もいさゝか酬いられた云はなければならぬ。然らば新日本史は茲{ここ}に完結を告げた乎。是から守成の歴史に移るの乎。局面回轉の要はないか。最早{もう}志士の必要は無い乎。飛んでもないことである。五十餘年前、徳川三百年の封建社会を唯一簸{ひとあふ}りに推流{おしなが}して日本を打って一丸とした世界の大潮流は、倦{う}まず息{やす}まず澎湃として流れてゐる。其れは人類が一にならんとする傾向である。四海同胞の理想を實現せんとする人類の心である。何{ど}の國も何の國も陸海軍を並べ、税關の墻{かき}を押立てて、兄弟どころか敵味方、右で握手して左でポケットの短銃{ぴすとる}を握る時代である。窮屈と思ひ馬鹿らしいと思ったら實に片時もたまらぬ時ではないか。然し乍ら人類の大理想は一切の障壁を推倒して一にならなければ止まぬ。一にせん、一にならんともがく。國と國との間もそれである。人種と人種の間も其の通りである。階級と階級の間もそれである。性と性の間もそれである。宗教と宗教――數へ立つれば際限が無い。部分は部分に於て一になり、全體は全體に於て一とならんとする大渦小渦鳴戸の其れも啻{ただ}ならぬ波瀾の最中に我等は立ってゐるのである。斯の大回轉大軋轢は無際限であらう乎。恰も明治の初年日本の人々が皆感激の高調に上って、解脱に狂氣の如く自己を擲った如く、我々の世界も何時か王者其冠を投出し、富豪其金庫を投出し、戰士其劍を投出し、智愚強弱一切の差別を忘れて、青天白日の下に抱擁握手抃舞{べんぶ}する刹那は來ぬであらう乎。或は夢であらう。夢でも宜い。人間夢を見ずに生きて居られるものでない。――其時節は必ず來る。無論其れが終局ではない。人類のあらん限り新局面は開けて止まぬものである、然し乍ら一刹那でも人類の歴史が此詩的高調、此エクスタシイの刹那に達するを得ば、長い長い旅の辛苦も贖{あがな}はれて餘あるではないか。其時節は必ず來る、着々として來つゝある。我等の衷心が然囁くのだ。然しながら其の愉快は必ず我等が汗もて血をもて涙をもて贖はねばならぬ。收穫は短く、準備は長い。ゾラの小説にある、無政府主義者が鑛山のシャフトの排水樋を竊{ひそか}に鋸でゴシゴシ切って置く。水がドンドン坑内に溢れ入って、立坑{たてかう}といはず横坑といはず廢坑といはず知らぬ間に水が廻って、廻り切ったとと思ふと、俄然鑛山の敷地が陷落を初めて、建物も人も恐ろしい勢を以て瞬く間に總崩れに陷ち込んで了ったといふ事が書いてある。舊組織が崩れ出したら案外速にばたばたいってしまふものだ。地下に火が廻る時日が長い。人知れず働く犧牲の數が要る。犧牲、實に多くの犧牲を要する。日露の握手を來す爲に幾萬の血が流れた乎。彼等は犧牲である。然し乍ら犧牲の種類も一ではない。自ら進んで自己を進歩の祭壇に提供する犧牲もある。新式の吉田松陰等は出て來るに違ひない。僕は斯く思ひつゝ常に世田ヶ谷を過ぎてゐた。思ってゐたが、實に思ひがけなく今明治四十四年の劈頭{へきとう}に於て、我々は早くも茲に十二名の謀叛人を殺すことゝなった。唯一週間前の事である。

 

 諸君、僕は幸徳君等と多少立場を異にする者である。僕は臆病者で血を流すのは嫌である。幸徳君等に盡く眞劒に大逆を行る意志があったか無かったか僕は知らぬ。彼等の一人大石誠之助君が云ったと云ふ如く、今度のことは嘘から出た眞で、はづみにのせられ、足もとを見る遑{いとま}もなく陷穽{おとしあな}に落ちたのか如何か。僕は知らぬ。舌は縛られる、筆は折られる、手も足も出ぬ苦しまぎれに死物狂になって、天皇陛下と無理心中を企てたのか、否か。僕は知らぬ。冷嚴なる法律の目から見て、死刑になった十二名悉{ことごと}く死刑の價値があったか。僕は知らぬ。「一無辜{いちむこ}を殺して天下を取るも不爲{なさず}」で其原因事情は何れにもせよ大審院の判決通り眞に大逆の企があったとすれば、僕は甚殘念に思ふものである。暴力は感心が出來ぬ。自ら犧牲となる共、人を犧牲にしたくない。然し乍ら大逆罪の企に萬不同意であると同時に、其企の失敗を喜ぶと同時に、彼等十二名も殺したくはなかった。生かして置きたかった。彼等は亂臣賊子の名を受けてもたゞの賊ではない、志士である。たゞの賊でも死刑はいけぬ。況{いは}んや彼等は有爲の志士である。自由平等の新天新地を夢み身を獻げて人類の爲に盡さんとする志士である。其行爲は假令{たとへ}狂に近いとも、其志は憐れむべきではないか。彼等は、もとは社會主義者であった。富の分配の不平等に社會の缺陷を見て、生産機関の公有を主張した、社会主義が何が恐{こは}い? 世界の何處にでもある。然るに狹量にして神經質な政府は、ひどく氣にさへ出して、殊に社會主義者が日露戦争に非戰論を唱ふると俄に壓迫を強くし、足尾騷動から赤旗事件となって、官權と社會主義者は到頭犬猿の間になって了った。諸君、最上の帽子は頭にのってゐることを忘るゝ樣な帽子である。最上の政府は存在を忘れらるゝ樣な政府である。帽子は上に居る積りであまり頭を押付けてはいけぬ。我等の政府は重いか輕いか分らぬが、幸徳君等の頭にひどく重く感ぜられて、到頭彼等は無政府主義者になって了ふた。無政府主義が何が恐い? 其程無政府主義が恐いなら、事の未だ大ならぬ内に、下僚ではいけぬ、總理大臣内務大臣なり自ら彼等と會見して、膝詰の懇談すればいゝではないか。然し當局者は其樣な不識庵流をやるにはあまりに武田式家康式で、且あまりに高慢である。得意の章魚{たこ}の樣に長い手足で、じいとからんで彼等をしめつける。彼等は今や堪{こら}へ兼ねて鼠は虎に變じた。彼等の或者は最早最後の手段に訴へる外ないと覺悟して、幽靈の樣な企{くはだて}がふらふらと浮いて來た。短氣がわるかった。ヤケがいけなかった。今一足の辛抱が足らなかった。然し誰が彼等をヤケにならしめた乎。法律の眼から何と見ても、天の眼からは彼等は亂臣でもない、賊子でもない、志士である。皇天其志を憐んで、彼等の企は未だ熟せざるに失敗した。彼等が企の成功は、素志の蹉跌{さてつ}を意味したであらう、皇天其志を憐れみ、また彼等を憐んで其の企を失敗せしめた。企は失敗して、彼等は擒{とら}へられ、さばかれ、十二名は政略の爲に死減一等せられ、重立たる餘の十二名は天の恩寵によって立派に絞臺の露と消えた。十二名――諸君、今一人、土佐で亡くなった多分自殺した幸徳の母君あるを忘れてはならぬ。

 

 斯くの如くして彼等は死んだ。死は彼等の成功である。パラドックスのやうであるが、人事の法則、負くるが勝である。死ぬるが生きるである。彼等は確に其自信があった。死の宣告を受けて法廷を出る時、彼等の或者が「萬歳! 萬歳!」と叫んだのは其證據である。彼等は斯くして笑を含んで死んだ。惡僧と云はるゝ内山愚堂の死顔は平和であった。斯くして十二名の無政府主義者は死んだ。數へ難き無政府主義者の種子{たね}は蒔かれた。彼等は立派に犧牲の死を遂げた。然し乍ら犧牲を造れるものは實に禍{わざはひ}なるかな。

 

 諸君、我々の脈管には自然に勤王の血が流れてゐる。……………………天皇陛下は剛健質實、實に日本男兒の標本たる御方である。「とこしへに民安かれと祈るなる吾代を守れ伊勢の大神。」其誠は天に逼{せま}るといふべきもの。「取る棹{さを}の心長くも漕ぎ寄せん蘆分小舟{あしわけこぶね}さはりありとも。」國家の元首として堅實の向上心は、三十一文字に看取される。「あさみどり澄み渡りたる大空の廣きをおのが心ともがな。」實に立派な御心掛である。諸君、我等は斯の天皇陛下を戴いてゐ乍ら、假令親殺しの非望を企てた鬼子{きし}にもせよ、何故に其十二名だけが宥{ゆる}されて、餘の十二名を殺さなければならなかった乎。陛下に仁慈の御心がなかったか。御愛憎があったか。斷じて然樣ではない――確に補弼の責である。若し陛下の御身近く忠義硬骨の臣があって、陛下の赤子{せきし}に差異は無い、何卒十二名の者共罪の淺きも深きも一同に御宥し下されて、反省悔悟の機會を御與へ下されかしと、身を以て懇願する者があったならば、陛下も御頷{おんうなづ}きになって、我等は十二名の謀叛人の墓を建てずに濟んだであらう。若し斯樣な時にせめて山岡鐵舟が居たならば――鐵舟は忠勇無双の男、陛下が御若い時英氣にまかせ矢鱈に臣下を投飛ばしたり遊ばすのを憂へて、或時イヤといふ程手剛{てごは}い意見を申上げたこともあった。若し木戸松菊が居たらば――明治の初年木戸は陛下の御前{みまへ}、三條岩倉以下卿相列坐の中で、面を正して陛下に向ひ、今後の日本は從來の日本と同じからず、既に外國には君主を廢して共和政治を布きたる國も候、よくよく御注意遊ばさるべくと凛然として言上{ごんじゃう}し、陛下も悚然{しょうぜん}として御容{おんかたち}をあらため、列坐の卿相皆色を失ったといふことである。せめて元田宮中顧問官でも生きて居たらばと思ふ。元田は眞に陛下を敬愛し、君を堯舜{げうしゅん}に致すを畢生{ひっせい}の精神としてゐた。せめて伊藤さんでも生きて居たら。――否、若し皇太子殿下が皇后陛下の御實子であったら、陛下は御考があったかも知れぬ。皇后陛下は實に聰明恐れ入った御方である。「淺くとてせけばあふるゝ河水の心や民の心なるらん。」陛下の御歌は實に爲政者の金誡である。「淺しとてせけばあふるゝ」せけばあふるゝ、實に其通りである。若し當局者が無闇に堰{せ}かなかったならば、數年前の日比谷燒討事件はなかったであらう。若し政府が神經質で依怙地{えこぢ}になって社會主義者を堰かさなかったならば、今度の事件も無かったであらう。然し乍ら不幸にして皇后陛下は沼津に御出になり、物の役に立つべき面々は皆他界の人になって、廟堂にずらり頭を駢{なら}べて居る連中には誰一人帝王の師たる者もなく、誰一人面を冒して進言する忠臣もなく可惜{あたら}君徳を輔佐して陛下を堯舜に致すべき千載一遇の大切なる機會を見す見す看過し、國家百年の大計から云へば眼前十二名の無政府主義者を殺して將來永く無數の無政府主義者を生むべき種子を播いて了ふた。忠義立して十二名を殺した閣臣こそ眞に不忠不義の臣で、不臣の罪で殺された十二名は却て死を以て吾皇室に前途を警告し奉った眞忠臣となって了ふた。忠君忠義――忠義顔する者は夥{おびただ}しいが、進退伺を出して恐懼{きょうく}恐懼と米つきばったの眞似をする者はあるが、御歌所に干渉して朝鮮人に愛想を振りまく悧口者はあるが、何處に陛下の人格を敬愛してますます徳に進ませ給ふ樣に、希{こひねが}ふ眞の忠臣がある乎。何處に不忠の嫌疑を冒しても陛下を諫め奉り陛下をして敵を愛し不孝の者を宥し給うた君とし奉らねば已まぬ忠臣がある乎。諸君、忠臣は孝子の門に出づで、忠孝もと一途である。孔子は孝について何と云った乎。色難、有事弟子服其勞、有酒食先生餞、曾以此爲孝乎{いろかたし、ことあればでしそのらうにふくし、しゅしょくあればせんせいにせんす、かつてこれをもってかうとなす}。行儀の好いのが孝ではない。また曰ふた今之孝者謂唯能養、到犬馬皆能有養、不敬何以別乎。體ばかり大事にするが孝ではない。孝の字を忠に代へて見るがいゝ。玉體ばかり大切にする者が眞の忠臣であらう乎。若し玉體大事が第一の忠臣なら、侍醫と大膳職と皇宮警手とが大忠臣でなくてはならぬ。今度の事の如きこそ眞忠臣が禍を轉じて福となすべき千金の機會である。列國も見てゐる。日本にも無政府黨が出て來た。恐ろしい企をした、西洋では皆打殺す、日本では寛仁大度の皇帝陛下が、悉く罪を宥して反省の機會を與へられたと云へば、いさゝか面目が立つではないか。皇室を民の心服に打込むのに、斯樣な機會はまたと得られぬ。然るに彼等閣臣の輩{やから}は事前に其企を萌すに由なからしむる程の遠見と憂國の誠もなく、事後に局面を急轉せしむる機智親切もなく、云はゞ自身で仕立てた不孝の子二十四名を得たりや應と引括って二進{にっちん}の一十{いっし}、二進の一十、二進の一十で綺麗に二等分して――若し二十五人であったら十二人半宛にしたかも知れぬ――二等分して格別物にもなりさうも無い足の方丈死一等を減じて牢屋に追込み、手硬い頭だけ絞殺して地下に追ひやり、天晴{あっぱれ}恩威{おんゐ}並{ならび}行はれて候と陛下を小楯に五千萬の見物に向って氣取った見得は、何といふ醜態である乎。啻{たゞ}に政府許りでない、議會をはじめ誰も彼も皆逆徒の名に恐れをなして一人として聖明の爲に弊事を除かんとする者もない。出家僧侶宗教家などには、一人位は逆徒の命乞する者があって宜いではない乎。然るに管下の末寺から逆徒が出たと云っては大狼狽で破門したり僧籍を剥いだり、恐入り奉るとは上書しても、御慈悲と一句書いたものが無い。何といふ情けないこと乎。幸徳等の死に關しては、我々五千萬人齊{ひと}しく其責を負はねばならぬ。然し尤も責むべきは當局者である。總じて幸徳等に對する政府の遣口は最初から蛇の蛙を狙ふ樣で、隨分陰險冷酷を極めたものである。網を張って置いて、鳥を追立て、引かかるが最後網をしめる。陷穽{おとしあな}を掘って置いて、其方にぢりぢり追ひやって、落ちるとすぐ蓋をする。彼等は國家の爲にする積りかも知れぬが、天の目からは正しく謀殺――謀殺だ。それに公開の裁判でもすることか、風紀を名として何もかも闇中にやってのけて――諸君、議會に於ける花井辯護士の言を記憶せよ、大逆事件の審判中當路の大臣は一人も唯の一度も傍聽に來なかったのである――死の判決で國民を嚇{おど}して、十二名の恩赦で一寸機嫌を取って、餘の十二名は殆ど不意打の死刑――否死刑ではない、暗殺――暗殺である。せめて死骸になったら一滴の涙位は持っても宜いではない乎。それにあの執念な追窮のしざまは如何だ。死骸の引取り會葬者の數にも干渉する。祕密、祕密、何もかも一切祕密に押込めて、死骸の解剖すら大學ではさせぬ。出來ることならさぞ十二名の靈魂も殺して了ひたかったであらう。否、幸徳等の體を殺して無政府主義を殺し得た積りでゐる。彼等當局者は無神無靈魂の信者で、無神無靈魂を標榜した幸徳等こそ眞の永生{えいせい}の信者である。然し當局者も全く無靈魂を信じ切れぬと見える。彼等も幽靈が恐いと見える。死後の干渉を見れば分る。恐い筈である。幸徳等は死ぬる所か活發々地に生きてゐる。現に武藏野の片隅に寢てゐた斯くいふ僕を曳きづって來て、此処に永生不滅の證據を見せてゐる。死んだ者も恐ければ、生きた者も恐い。死減一等の連中を地方監獄に送る途中警護の仰山{ぎょうさん}さ、始終短銃を兇徒の頭にさしつけるなぞ、其恐がり樣もあまりひどいではない乎。幸徳等は嘸{さぞ}笑ってゐるであらう。何十萬の陸軍、何萬噸の海軍幾萬の警察力を擁する堂々たる明治政府を以てして、數ふる程もない、加之{しかも}手も足も出ぬ者共に對する怖{おび}へ樣も甚しいではない乎。人間弱味がなければ滅多に恐がるものでない。幸徳等瞑すべし。政府が彼等を殺した其前後の遽{あわ}てざまに、政府の否君等が所謂權力階級の鼎{かなへ}の輕重は分明に暴露されて了ふた。

 

 斯樣{こん}な事になるのも、國政の要路に當る者に博大なる理想もなく信念もなく人情に立つことを知らず、人格を敬することを知らず、謙虚忠言を聞く度量もなく、日月と共に進む向上の心もなく、傲慢にして甚しく時勢に後れたるの致す所である。諸君、我等は決して不公平ではならぬ。當局者の苦心はもとより察せねばならぬ。地位は人を縛り、歳月は人を老いしむるものである。廟堂の諸君も昔は若かった。書生であった。今は老成人である。殘念ながら御ふるい。切り棄てゝも思想はt々{カウカウ}たり。白日の下に駒を馳{は}せて、政治は馬上提灯の覺束ないあかりにほくほく瘠馬を歩ませて行くといふのが古來の通則である。廟堂の諸君は頭の禿げた政治家である。所謂責任ある地位に立って、慎重なる態度を以て國政を執る方々である。當路に立てば處士横議は確に厄介なものであらう。仕事をするには邪魔も拂ひたくなる筈。統一々々と目指す鼻先に、反對の禁物は知れたことである。老人の胸には、花火線香も爆裂彈の響がするかも知れぬ。天下泰平は無論結構である。共同一致は美徳である。齊一統一は美觀である。小學校の運動會に小さな手足の揃ふすら心地好いものである。「一方に靡きそろひて花すゝき 風吹く時ぞ亂れざりける」で、事ある時などに國民の足並みの綺麗に揃ふのは、まことに餘所目{よそめ}立派{りっぱ}なものであらう。然しながら當局者はよく記憶しなければならぬ、強制的の一致は自由を殺す、自由を殺すは即ち生命を殺すのである。今度の事件でも彼等は始終皇室の爲國家の爲と思ったであらう。然し乍ら其結果は皇室に禍し、無政府主義者を殺し得ずして却って夥しい騷動の種子を蒔{ま}いた。諸君は謀叛人を容るゝの度量と、青書生に聽くの謙遜がなければならぬ。彼等の中には維新志士の腰について、多少先輩當年の苦心を知ってゐる人もある筈。よくは知らぬが、明治の初年に近時評論などで大分政府に窘{いぢ}められた經驗がある閣臣も居る筈。窘められた嫁が姑になって又嫁を窘める。古今同嘆である。當局者は初心を點檢して、書生にならねばならぬ。彼等は幸徳等の事に關しては自信によって涯分{がいぶん}を盡くしたと辧疏{べんそ}するかも知れぬ。冷ややかな歴史の眼から見れば、彼等は無政府主義者を殺して、却って局面開展の地を作った一種の恩人とも見られやう。吉田に對する井伊をやった積りでゐるかも知れぬ。徳川の末年でもあることか、白日青天、明治昇平の四十四年に十二名といふ陛下の赤子、加之{しかのみならず}爲す所あるべき者共を窘めぬいて激さして謀叛人に仕立てゝ、臆面もなく絞殺した一事に到っては、政府は斷じて之が責任を負はねばならぬ。麻を着、灰を被って不明を陛下に謝し、國民に謝し、死んだ十二名に謝さなければならぬ。死ぬるが生きるのである。殺さるゝ共殺してはならぬ犧牲となるが奉仕の道である。――人格を重むぜねばならぬ。負はさるゝ名は何でもいゝ。事業の成績は必ずしも問ふ所ではない。最後の審判は我々が最も奧深いものによって定まるのである。

 

 諸君、幸徳君等は時の政府に謀叛人と見做されて殺された。が、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である。「身を殺して魂を殺す能はざる者を恐るゝ勿れ」肉體の死は何でも無い。恐るべきは靈魂の死である。人が教へられたる信條のまゝに執着し、言はせらるゝ如く言ひ、爲{さ}せらるゝ如くふるまひ、型から鑄出{いだ}した人形の如く形式的に生活の安を偸{ぬす}んで、一切の自立自信、自化自發を失ふ時、即ち是れ靈魂の死である。我等は生きねばならぬ。生きる爲に謀叛しなければならぬ。古人は云ふた如何なる眞理にも停滯するな、停滯すれば墓となると。人生は解脱{げだつ}の連續である。如何に愛着する所のものでも脱ぎ棄てねばならぬ時がある。其は形式殘って生する所のものでも脱ぎ棄てねばならぬ時がある。其は形式殘って生命去った時である。「死にし者は死にし者に葬らせ」墓は常に後にしなければならぬ。幸徳等は政治上に謀叛して死んだ。死んで最早復活した。墓は空虚だ。何時迄も墓に縋りついてはならぬ。「若{もし}爾の右眼爾を礙{つまづ}かさば抽出{ぬきだ}して之をすてよ」愛別、離苦、打ち克たねばならぬ。我等は苦痛を忍んで解脱せねばならぬ。繰り返して曰ふ、諸君、我等は生きねばならぬ。生きる爲に常に謀叛しなければならぬ。自己に對して、また周圍に對して。

 

 諸君、幸徳君等は亂臣賊子として絞臺の露と消えた。其行動について不滿があるとしても、誰か志士として其動機を疑ひ得る。西郷も逆賊であった。然し今日となって見れば、逆賊でないこと西郷の如き者がある乎。幸徳等も誤って亂臣賊子となった。然し百年の公論は必其事を惜むで其志を悲しむであらう。要するに人格の問題である。諸君、我々は人格を研{みが}くことを怠ってはならぬ。

 

 

【徳富蘆花】 とくとみろか 〔1868〜1927〕

作家。本名健次郎。熊本県生まれ。徳富蘇峰の弟。1885年受洗。同志社中退。蘇峰の民友社に入り「国民之友」「国民新聞」に執筆,長編小説『不如帰(ホトトギス)』で世に出,続いて『思出の記』,随筆『自然と人生』を書き名声を得た。トルストイに傾倒,1906年ロシアを訪れ,帰国後半農生活に入って『みみずのたはごと』を書き,宗教的生活に沈潜した。全集がある。長年兄蘇峰と不和であったが死の直前に和解した。

【大逆事件】 たいぎゃくじけん

1910〜11年明治天皇暗殺計画という容疑で多数の社会主義者が逮捕,処刑された事件。1908年赤旗事件前後から社会主義者への弾圧を強めた政府は,10年5月,長野県明科の職工宮下太吉の爆裂弾製造所持の事件をきっかけに,翌月から全国の社会主義者数百名を検挙,26名を大逆罪で起訴した。12月から翌年1月にかけ大審院特別法廷は非公開裁判を行ない,幸徳秋水,森近運平,管野スガ,新村忠雄,宮下,古河力作,奥宮健之,大石誠之助ら24名に死刑,2名に有期刑の判決を下し,死刑のうち12名は無期に減刑し,結局幸徳ら12名は世界中の抗議のうちに1月24日処刑(管野は翌日処刑)。以後社会主義運動はきびしく弾圧。戦後の60年,事件関係生存者の坂本清馬により東京高裁に事件の再審請求が提出されたが棄却,最高裁への特別抗告も棄却。事件の大半は「でっち上げ」と考えられている。

【幸徳秋水】 こうとくしゅうすい 〔1871〜1911〕

明治の社会主義者。名は伝次郎。高知県生まれ。1887年上京,保安条例で東京を追われ,大阪で中江兆民に師事。「中央新聞」「万朝報」などの記者となり,社会主義に接近。98年社会主義研究会に入る。1901年社会民主党結成に参加(即日禁止)。03年日露開戦に反対して内村鑑三,堺利彦とともに万朝報を退社。平民社を創設し週刊「平民新聞」を発刊して非戦論を展開。戦後米国に旅行し無政府主義に転じ,帰国後直接行動論を主張。10年大逆事件に関係ありとして検挙され,翌年死刑。著書『廿世紀之怪物帝国主義』『社会主義神髄』などのほか全集11巻がある。

 

 

 

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謀叛論 二・二六事件

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