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承平・天慶の乱
(平将門・藤原純友)

 
将門記
4 良兼との戦い2
 

●子飼の渡の戦い

こうして同年5月11日をもって都を辞してみすぼらしい自宅に着く。まだ旅の脚を休めず、まだ十日・一月を経ていないうちに、例の下総介良兼、前々からの怨みを忘れておらず、やはり敗戦の恥をすすごうと思った。ここ数年準備した軍備は、平常と違って優れていた。

そうして8月6日に常陸・下総両国の境にある子飼の渡を囲んできた。その日の陣立ては、霊像を陣の前に張り飾った〔霊像というのは、故・上総介・高茂王(将門の祖父・高望王)の形と、故・陸奥将軍・平良茂(将門の父・良持)の形であった〕。精兵を整えて将門を襲い、攻めた。その日の明神には将門への怒りがあって、将門は何もできなかった。従う兵が少ない上、準備もすべて劣っていて、ただ楯を背負って帰る。このとき、下総介は、下総国豊田郡栗栖院常羽御厩(くりすのいん いくはのみまや)や人民の家を焼き払った。このとき、昼は人家の食事の火の始末をし終えたのにかかわらず、奇怪な灰が家ごとに満ち、夜は民のかまどの煙が立ち上らず、漆のように焼けこげた柱が家々に立ち並んでいた。煙ははるかに空を覆う雲のように広がり、良兼軍のかがり火は地に星が散っているようであった。

同7日をもって、敵は勇猛の武名を将門から奪い取って、いちはやく去っていき、将門は深い怨みを抱いたまましばらく潜伏した。

 

●堀越の渡の戦い

将門は、一つには武名を後代に残そうと望み、また合戦の状況を一両日のうちに変えようとして、構えた鉾・楯は370枚、兵士は倍増させた。同月17日をもって、同郡下大方郷の堀越の渡しに人を固めて待った。例の敵は予期したとおり、雲のように立ち現れて、雷のように響きを立てた。その日、将門は急に脚の病になって、朦朧としてしまった。まだそれほど合戦していないのに、伴類は算木がバラバラになるように打ち据えられて散ってしまった。残った民家は、敵のためにみなことごとく焼けてしまった。郡中の農耕作物、人馬ともに損害を被った。千人も駐屯するところには草木が繁茂しない、というが、このことをいうのだろうか。

その時、将門は身の病をいたわるため、妻子を隠して、ともに猿島郡葦津江の辺に宿った。非常事態の恐れがあるので、妻子を船に乗せて広河の江に浮かべた。将門は山を伝って陸閉の岸におり、一両日を経る間に、例の敵が18日には分散していった。19日には敵の介が猿島の道をとって上総国に渡っていった。その日、将門の妻は船に乗って彼方の岸に寄せている。このとき、かの敵らが通報人の助けを得て例の船を訪ねていって取った。7〜8隻のうちに掠奪された雑物・道具類は3000あまりになった。妻子も同じく取られた。そうして20日に上総国に渡った。ここにまさかどの妻は夫のもとから離れて抑留され、大いに怒り、怨んだ。その身は生きているが、魂は死んだようだった。旅の宿に慣れていないこともあるが、興奮して眠れず、仮眠しかできない。なんの利益があろうか。妻妾は常に貞婦の心を持ち、韓朋とともに死にたいと願う(中国戦国時代の宋の韓朋は、美人の妻を康王に奪われて悲しんで自殺した)。夫は漢王(玄宗)のように、楊貴妃の魂を訪ね求めるかのごとくである。謀議をめぐらすうちに数旬が経ってしまった。なお恋うているが、会う機会がなかった。その間、将門の妻の弟らがはかりごとをして、9月10日、ひそかに豊田郡に帰らせた。すでに親族たちに背いて、夫のもとに帰ったのだった。たとえるならば、遼東の女が夫に従って父の国を討ったという話のようなものだ。

 

●弓袋山の対陣

しかし、将門はやはり伯父と前世からの仇敵のごとく、互いに戦い続けた。このとき、介の良兼は親類縁者がいるために常陸国にたどり着く。将門はこのことを聞いて、また征伐しようと思った。備えた兵士1800余人、草木ともになびかせ、(9月)19日に常陸国真壁郡に出発した。そして、例の介のいる服織の宿から始めて、与力・伴類の家をある限り焼き払った。一両日のあいだに例の敵を追い求めるが、みな高山に隠れて、いることがわかっているのに会えなかった。

逗留するうちに、筑波山にいると聞き、(9月)23日に数をそろえて出発した。実状を探ってみると、例の敵は弓袋の山の南の谷からはるかに千人あまりの声を聞いた。山は響き、草は動いて、車のきしむ音、罪人を責める声がやかましく響き渡った。将門は陣を固め、楯を築いて、書簡を送ったり、兵士を進め寄せたりした。

ときに暦でいう孟冬(陰暦十月)、時刻は黄昏ごろである。各々楯をひき、陣の守りを固めた。昔から今に至るまで、敵を苦しめるには、昼の間は矢をつがえて、その八が敵に当たるのを見極める。夜は弓を枕とし、敵が心を励まして攻めてくるのを危ぶむ。風雨のときには、蓑笠を家とし、露営の身には蚊や虻が仇である。しかし、両陣営とも敵を怨んでいるために、寒さ暑さをかえりみずに合戦する。このたびの軍事行動は秋の収穫の名残があった。稲束を深い泥に敷いて人馬をたやすく渡すことができた。まぐさを食べ過ぎて死んだ牛は10頭、酒に酔って討たれた者も7人いた。〔真樹の陣中の人は死んでいない〕悔しいことに数千の家を焼き、悲しいことに何万もの稲を滅す。ついに敵に会うことなくむなしく本拠地に帰った。

 

●将門の駈使・子春丸、間諜となる

その後、同年11月5日、介の良兼・掾の源護ならびに掾の平貞盛・公雅・公連・秦清文ら、常陸国の敵たちを将門に追捕させるという官符が、武蔵・安房・上総・常陸・下毛野などの国に下された。ここに至って、将門は非常に意気を上げ、力づいた。しかし、諸国の国司は官符を受けながら、実行しようとせず、進んで探索しようとしなかった。そして、介の良兼はなおも忿怒の毒を含み、いまだ殺害の気持ちを止めようとしなかった。ついでを求め、隙を狙って、いずれ将門を討とうと欲した。

ときに将門の駈使(雑用に使われる者)丈部(はせつかべノ)子春丸が縁あってしばしば常陸国石田庄の辺の田屋と往来していた。そこで例の介が心中に思うには、「人を陥れようとして激しく言い立て、たのみ乞い求めれば、岩をもうちやぶり、山を傾けるほどの強い力となる。子春丸の注進を得て、将門らの身を殺害せねばならない」と。そこで子春丸を召し取って、様子を聞いた。「大変よいことであります。今こちらの農民一人を渡してください。連れて帰ってあちら側の様子を見せさせましょう」云々と答える。介は喜び楽しむことがはなはだしく、東絹1疋を賜って、「もし汝の情報によって将門を謀害することができれば、汝の苦役をなくし、必ず乗馬の郎党に取り立てよう。穀米を積んで勇気を鼓舞したり、衣服を与えて賞するよりもいいだろう」と言った。子春丸は、駿馬の肉を食べれば身体を損なうということを知らなかった。鴆毒の甘さによって喜んでいた。

そこで例の農民を連れて、私宅の豊田郡岡崎の村に帰った。その翌日早朝、子春丸とその農民は、各々炭を背負って将門の石井(いわい)の営所に至った。一両日宿直警備しているあいだに使者を招き入れて、その兵具の置き場所、将門の夜の寝所、東西の馬場、南北の出入りをすべて見知らせた。

 

●石井の迎撃戦

この使者は帰っていって、くわしくこの事情を伝えた。介の良兼は夜討ちの兵を整え、同年12月14日の夕方、石井の営所に派兵した。その兵類は、一騎当千の者ばかり80余騎、すでに養由の弓を張り〔漢書にいう、養由とは弓をとれば空の鳥が自ら落ち、百発百中の弓の名手である〕、解烏の矢入れを背負い〔淮南子にいう、夷ゲイという弓師が堯帝の時代にいた。十個の太陽が現れたとき、この人が射て、九個の太陽を射落とした。その太陽に金の烏がいた。そのため解烏と名付けたという。上等の兵士のたとえである〕、駿馬の蹄を催し〔晋代の詩人・郭璞は、駿馬は生まれて三日でその母を超え、一日に百里を行く、という。ゆえに駿馬にたとえたのである〕、李陵の鞭を揚げて、風のように疾駆していき、鳥のように飛びついた。

亥の刻(午後十時)に結城郡法城寺(結城寺?)に突き当たる道に出て、到着するころ、将門の一騎当千の兵が暗に夜討ちの気配を知った。介の軍の後陣にまじってゆっくりと進んでいくと、一向にばれなかった。そこで鵝鴨(かも)橋の上からひそかに先に進み出て、石井の宿に馳せ参じ、つぶさに事情を述べた。主従ともに騒ぎ恐れて、男女ともに騒いだ。

ここに敵たちは卯の刻(午前6時)に包囲した。このとき、将門の兵は10人にも満たなかった。声を上げて告げて言うには、「昔聞くところによると、由弓〔人名〕は爪を楯として数万の敵に勝ち、子柱〔人名〕は針を立てて千もの鉾を奪った、という。まして私には猛将・李陵の心がある。お前たちは決して顔を後ろに背けるようなことがあってはならない」と。

将門は眼を見開き、歯を食いしばり、進んで撃ちあった。このとき、例の敵たちは楯を捨てて雲のように逃げ散ってしまった。将門は馬に乗って風のように追い攻める。逃げる者は猫に出会った鼠が穴を失ったようにあわてふためき、追う者は、雉を攻める鷹が鷹匠の手袋を離れていくようであった。第一の矢で上兵・多治良利を射取り、残った者は九牛の一毛ほどもいなかった。その日殺害された者は40人あまり、生き残った者は天運に恵まれたがために逃れていったのだ。〔ただし、密告者・子春丸は天罰あって事が露見し、承平8年正月3日に捕らえ殺されてしまった〕

 

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平将門
将門記         10
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