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承平・天慶の乱
(平将門・藤原純友)

 
将門記
9 将門の最期
 

●貞盛の妻

ところが新皇は、井戸の底で浅はかな思いを抱いて、境域外の広い戦略を持っていなかった。そこで相模から本拠に帰った後、まだ馬の蹄を休めないうちの天慶3年正月中旬に、残りの敵を撃つため、5000の兵を率いて常陸国に出発した。そのとき、那珂郡・久慈郡の藤原氏らは国境に出迎えて、贅を尽くした宴会を開いてもてなした。新皇は勅して「藤原氏ら、掾の貞盛と為憲らの所在を申せ」と言った。そこで藤原氏らは「聞いたところによると、その身は浮雲のようで、飛び去り、飛び来たって、住所は不定です」と奏上した。

こうしてなおも探索しているうちに、ようやく10日ほどが経った。なんとか、吉田郡蒜間の江のほとりに、掾の貞盛・源扶の妻を捕えることができた。陣頭の多治経明・坂上遂高(さかのうえのかつたか)らの中に、その女たちが連れてこられた。

新皇はこのことを聞いて、女人がはずかしめをうけないように勅命を下したが、勅命以前に兵卒らにことごとく凌辱されていた。そのなかでも、貞盛の妻は、服をはぎ取られて裸にされてどうしようもなかった。眉の下の涙は顔の白粉を流し、胸中の炎は心の中の肝を貫いた。思いのほかの恥が自らの恥となったのである。会稽の恥をそそごうとした報いに、その会稽の敵に会ってしまったようなものだ。どうして人のせいにできようか、どうして天を怨むことができようか。生前に受ける恥は、自らに原因があるのだから。

そこで傍らにいた陣頭の武将らが新皇に奏上した。「例の貞盛の妻は、顔立ちが美しいものです。罪科は妻にはありません。できれば恩詔をたれて、早く本拠に送り返してください」。新皇は「女人の流浪者は本拠地に返す、というのが法の通例である。また、身よりのない人、孤独な人に哀れみを垂れるのは、古帝の良い手本である」と勅した。そこで一かさねの衣服を賜って、その女の本心を確かめるために勅歌を詠んだ。

「よそにても風の便に吾ぞ問ふ 枝離たる花の宿(やどり)を」
(離れたところにいても、香りを運ぶ風の便りに、枝を離れていった花の行方を私は訪ね求める)

貞盛の妻も幸いに温情ある処遇にあったことから、これに唱和して詠んだ。

「よそにても花の匂ひの散り来れば 我身わびしとおもほえぬかな」
(離れたところにいても、花の香りが散ってやってくるのだから、私の身の上がわびしいものとは思いません)

そのとき、源扶の妻もその身の不幸を恥じて、人に寄せてこう詠んだ。

「花散りし我身もならず吹く風は 心もあはきものにざりける」
(花が散り、我が身には実もならなくなったので、吹く風は心寂しく感じられます)

こういった歌を交わしているうちに人々の心はなごみ、逆心も弱まった。

 

●川口村の戦い

何日も経ったが、例の敵の消息を聞くことはなかった。そのため、諸国の兵士らはみな帰してしまった。わずかに残った兵は1000人にも足りない。このことを伝え聞いて、貞盛と押領使・藤原秀郷らは、4000人あまりの兵を率いて、すぐさま合戦しようとした。

新皇は大いに驚いて、2月1日、兵を率いて敵の地である下野方面に国境を越えて向かった。このとき、新皇将門の前の陣はまだ敵の所在を知らなかったが、副将軍・玄茂の陣頭の経明・遂高らの後陣が敵の所在を発見した。実情を見るために高い山の頂に登ってはるかに北方を見ると、実際に敵がいた。気配ではほぼ4000人ほどであった。

そこで経明らは、すでに一騎当千の名声を得ていたため、例の敵を見逃すわけにはいかなかった。そこで、新皇に奏上せず、迫って押領使秀郷の陣とうちあった。秀郷はもとより古い計略に通じていて、思いのままに玄明の陣をうち倒してしまった。その副将軍・兵士らは三軍を動かす手に詰まってしまい、四方の野に散っていった。道を知る者は弓のつるのように素早く逃げ去り、よく知らない者は車輪のようにそのあたりを回っているだけだった。生存者は少なく、亡くなった者が多かった。

ときに貞盛・秀郷らが敗走軍の後について追撃するうちに、同日の未申(午後三時)ごろに川口村を襲撃した。新皇は声をあげて迎え撃ち、剣を振るって自ら戦う。

貞盛は天を仰いで言った。「私兵である賊軍は雲の上の雷のようだ。公の従者は厠の底の虫のようだ。しかし、私兵どものほうには道理がない。公のわが方には天の助けがある。三千の兵は絶対に面を背けて逃げ帰ることがないように」と言った。

日はようやく未刻(午後二時ごろ)を過ぎて黄昏になっていた。みな李陵王のような勇猛心を奮い立たせ、死生を決するつもりで奮戦した。桑の弓のように思い切り引くことができ、ヨモギの矢のように見事に的中する。

官兵は常よりも強く、私兵は常よりも弱かった。さすがの新皇も馬の口を後ろに向け、楯を前に出して防戦する。昨日の雄は今日の雌。そのため常陸国の兵はあざけり笑って宿営にとどまった。下総国の兵は怒り、恥じながらすぐにそこを去っていった。

 

●北山の決戦――将門の最期

その後、貞盛・秀郷らが語らって言うには、「将門も千年の寿命をもっているわけではない。我々も奴もみな一生の身である。それなのに、将門ひとりが人の世にはびこって、おのずと物事の妨げとなっている。国外に出ては乱悪を朝夕に行ない、国内では利得を国や村から吸い上げている。坂東の宏蠹(巨大なキクイムシ)・外地の毒蟒(毒ウワバミ)であっても、これより害があるものはない。昔の話に、霊力の神蛇を斬って九野を鎮め、巨大な怪鯨を斬って四海を清めたという。まさに今、凶賊を殺害してその乱を鎮めなければ、私的なものから公的なものに及んで、(天皇の)大きな徳が損なわれてしまうだろう。『尚書』に、「天下が平穏であったとしても、戦いはしなければならない。甲兵がいくら強くても訓練しなければならない」とある。今回は勝利したといえども、今後の戦いを忘れてはならない。それだけではなく、武王に病があったときに周公がその命に代わろうと祈念したという。貞盛らは公から命を受けて、まさに例の敵を撃とうとしているのである」と。

そこで群衆を集めて甘言をもって誘い、兵を整え、その数を倍増させて、同年2月13日、強賊の地である下総の国境に着いた。新皇は疲れた兵をおびき寄せようとして、兵を率いて幸嶋の広江に隠れた。

このとき貞盛はさまざまなことを行ない、計略を東西にめぐらして、新皇の美しい館から味方のあたりの家までことごとく焼き払った。火の煙は昇って天に届くほど、人の家は尽きて地に住人はない。わずかに残った僧や俗人は家を棄てて山に逃げた。たまたま残っていた身分ある者たちは道に迷って途方に暮れた。人々は、常陸国が貞盛によって荒らされたことを怨むよりも、将門らのために世が治まらないことを嘆いた。

そして貞盛は例の敵を追い求めた。その日は探索したが会えなかった。

その翌朝、将門は身に甲冑を着込んで瓢序のように身を隠す場所を考え、逆悪の心を抱いて衛方のように世を乱そうと考えた(白居易が言うには、瓢序は虚空にたとえたもの。衛方は荊州の人で、生まれつき邪悪なことを好んで、追捕されたときには天に上がり地に隠れた者である)。しかし、いつもの兵士8000余人がまだ集まってきていなかったので、率いていたのはわずか400人余りであった。とりあえず幸嶋郡の北山を背にして、陣を張って待ちかまえた。

貞盛・秀郷らは、子反のような鋭い陣構えを造り、梨老の剣の軍功を上げる策を練った(白居易が言うには、子反・養由の両人は、漢の時代の人。子反は40歳で鉾を投げると15里に及び、養由は70歳で剣を三千里に奪ったという)。

14日未申(午後3時)に、両軍は戦端を開いた。

このとき、新皇は順風を得て、貞盛・秀郷らは不幸にして風下にあっていた。その日、暴風が枝をならし、地のうなりは土塊を運んでいた。新皇の南軍の楯はおのずと前方へ吹き倒され、貞盛の北軍の楯は顔に吹き当てられた。そのため、両軍とも楯を捨てて合戦したが、貞盛の中の陣が討ちかかってきたので、新皇の兵は馬を駆って討った。その場で討ち取った兵は80余人、みな撃退した。ここに新皇の陣が敗走する敵軍を追撃した時、貞盛・秀郷・為憲らの従者2900人がみな逃げ去っていった。残ったのは精兵300人だけである。

これらの者が途方に暮れて逡巡しているうちに、風向きが変わって順風を得た。ときに新皇は本陣に帰る間に風下になった。貞盛・秀郷らは身命を捨てて力の限り合戦する。ここに新皇は甲冑を着て、駿馬を疾駆させて自ら戦った。このとき歴然と天罰があって、馬は風のように飛ぶ歩みを忘れ、人は梨老のような戦いの術を失った。新皇は目に見えない神鏑に当たり、託鹿の野で戦った蚩尤のように地に滅んだ。

 

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承平・天慶の乱関連年表
平将門
将門記         10
今昔物語 古事談 源平盛衰記 源平闘諍録
藤原純友
大鏡 今昔物語 古事談
参考リンク

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