|
|
ゴム弾・プラスチック弾の17人の犠牲者 |
- フランク・ローントゥリー(Frank Rowntree)(11歳、西ベルファスト)は、1972年4月、イギリス軍兵士の撃ったゴム弾を食らったとして治療を受けた4日後に亡くなった。彼の審問で、英国軍代表者はどんな距離でゴム弾銃を撃ってよいか、あるいは体のどの部分を狙うべきかを知らなかったと認めた。
- トビアス・モリー(Tobias Molloy)(18歳、ストラベインの共和主義者)は、1972年7月、キャメルス・ハンプ(Camels
Hump)国境交差点で兵士にゴム弾を撃たれて殺された。ゴム弾が、彼の葬式に参列している若者たちに撃たれた。
- トーマス・フリール(Thomas Friel)(21歳、デリー市)は、1973年5月、夜の外出から家に戻ろうとしたときにゴム弾の撃たれた音を聞いた5日後に亡くなった。
- スティーヴン・ゲディス(Stephan Geddis)(10歳、西ベルファスト)は、ゴム弾に撃たれた2日後に亡くなった。
- ブライアン・スチュアート(Brian Stewart)(13歳、ベルファストのターフ・ロッジ)は、家から数ヤードの距離からプラスチック弾を英国兵が撃った6日後に亡くなった。彼の審問で、兵士はbaton
roundsの使用を規制する規則を知らなかったことが明らかになった。
- マイケル・ドネリー(Michael Donnelly)(21歳、ベルファストのフォールス道)は、1980年8月にリーソン通りで殺された専門的ソーシャルワーカーである。暴動は起こっていなかった。ベルファストの高等裁判所は、プラスチック爆弾が「必要でなく不適切なときにpound
発射されたとしている。
- ポール・ホイッタース(Paul Whitters)(15歳、デリー市)は、1981年4月、RUC(王立アルスター警察)の撃ったプラスチック弾を頭に受けた10日後に亡くなった。
- ジュリー・リヴィングストン(Julie Livingstone)(14歳、西ベルファストのレナドゥーン地区)は、1981年5月に家の近くの店から戻ろうとしたときプラスチック弾に撃たれて翌日亡くなった。目撃者は、彼女が撃たれた「後」にこの地区で暴動が起こったという。
- キャロル・アン・ケリー(Carol Ann Kelly)(12歳、西ベルファストのトウィンブルーク)は、1981年5月に自宅近くでプラスチック爆弾に撃たれて、二日後亡くなった。彼女も店から戻る中で、撃たれたときにはミルクのカートンを運んでいた。
- ヘンリー・ダフィ(Henry Duffy)(45歳、クレガン出身、デリー市)は、1981年5月22日の早朝に頭と胸を撃たれ、同日亡くなった。
- ノーラ・マカベ(Nora McCabe)(30歳)は、1981年7月のある朝7:45にRUCのランドローヴァーからプラスチック弾を撃たれ、翌日亡くなった。車の助手席に座っていたRUC監督官は、審問にも発射がなかったといった。カナダのテレビ・クルーは、彼が偽証をしたと証明した。彼は後に昇進している。
- ピーター・ドヘルティ(Peter Doherty)(33歳、西ベルファストのディヴィス・フラッツ)は、1981年7月、台所に立っているときにイギリス船舶特別奇襲部隊に窓越しにプラスチック弾を撃たれ、頭を撃たれた。彼は7日後亡くなった。
- ピーター・マクギネス(Peter McGuiness)(41歳、北ベルファストの海岸通り)は、1981年8月、表の庭からのプラスチック爆弾に撃たれて数分後亡くなった。
- スティーヴン・マコーノミー(Stephen McConomy)(11歳、デリー市)は、1982年4月、プラスチック弾で撃たれた3日後に亡くなった。目撃者は、17フィート先から撃たれたとき、スティーヴンがポケットに手を突っ込んで立っていた。
- ジョン・ドーンズ(John Downes)(23歳、西ベルファストのアンダーソンタウン)は、共和主義者結集時のテレビカメラの前でRUCプラスチック弾によって胸を撃たれ、最も公衆の目にさらされる方法で殺された。
- キース・ホワイト(Keith White)(20歳、ムールネヴュー地方出身、ラーガン)は、1986年3月、ポルタドーンのアプレンティス・ボーイズのパレードでプラスチック弾を頭に撃たれ、2週間後に亡くなった。
- シェームス・ダフィ(Seamus Duffy)(15歳、北ベルファストのオールドパーク)は、1989年8月、ニューロッジ地区でRUCの車から逃げたため胸郭を撃たれ、それからすぐあとに亡くなった。
|