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IRELAND | アイルランド歴史資料室 | RECORDS |
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9世紀、バイキングがアイルランドを侵略し始めた。9世紀半ばまでに、多くのバイキングがアイルランドに定住していた。彼らはアイルランド人と混ざっていき、アイルランドの文化と言語を学んだ。彼らもキリスト教徒になった。バイキングはアイルランドに多くの町を設立したが、その最大のものはダブリンであった。
11世紀はじめまでに、アイルランドには最初の上王(high king=アードリー)――ブリアンボルー(Brian Boru, 941-1014)――が登場していた。ブリアンボルーの王国はクレア(clare)のダルカス(Dal Cais)である。王は最初に領土でバイキングをうち負かし、すぐにアイルランド南西の統治権を握った。次に、ウイ・ネイル(Ui Neill)氏族がアイルランドの北部・東南部で敗れた。ブリアンボルーの死後、すべてのアイルランド王が上王だと名乗った。戦争が1世紀以上諸国で繰り広げられた。
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1170年、ウェールズ伯ストロングボウ(Strongbow)に率いられてイギリスから来たノルマン人がアイルランドを侵略した。彼らは間もなくダブリンの支配を握り、ストロングボウはレンスターの王になった。翌年、イングランドのヘンリー2世は、ストロングボウ王国に権力を及ぼすためにアイルランドに来た。ヘンリー2世はローマ法王からアイルランドで教会を改革するよう依頼されていた。ローマ法王は、アイルランド人がヘンリー2世を支配者として受け入れるよう命じた。
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15世紀までに、アイルランドにおける英国支配地は、ダブリンを含む幅約20マイルの細長い地域に減っており、ペイル(Pale)と呼ばれる。これには多くの理由があった。多くの英国王たちはアイルランドに対する興味を失っていたのだ。バイキングのようなノルマン人たちはアイルランド人と結婚し、アイルランド語を学んだ。彼らはイギリスにほとんど忠誠を持っていなかった。
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17世紀の始めまで、アルスターはアイルランドにおける純粋なケルト人が生き残っている最後の地域であった。イギリス人はアルスターを支配するためには、プロテスタントの移住者をアルスターに植民しようと考えた。移住者の大多数はスコットランド人であった。彼らは新しい形式のキリスト教、長老教会派(プレスビテリアン)を携えてきた。多くのアイルランド生まれの人々が移住者の使用人とされた。
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このあと、アイルランド議会で、アイルランドからカトリックを一掃するための「刑罰法規」が可決した。1728年、カトリックが投票できないようにするもう一つの法律が可決された。長老派教会も町議会から追放されて苦しめられた。ユナイテッド・アイリッシュメンがイギリスに対して1798年に起こした反乱(プロテスタントのウルフ・トーンに率いられていた)のあと、アイルランド共和主義に対する措置がとられた。1800年、合同法が可決された。新しい国が作られた。グレートブリテンならびにアイルランド連合王国である。新しい旗のユニオンジャックも作られた。アイルランド議会は廃止され、アイルランドは直接ロンドン議会によって支配された。
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1886年、英国首相グラッドストンは、アイルランド問題を解決し、終わらせるために、最初の地方自治法案を提起した。それはロンドン議会で破棄された。アイルランドの多くのプロテスタントは、地方自治を欲していなかった。彼らはアイルランドのユニオニスト(統一論者)である。1893年、グラッドストンは2度目の地方自治法案を提起した。それは英国下院を通過したが、上院で破棄された。
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1905年、アーサー・グリフィス(Arthur Griffith, 1872-1922)は、新グループ、シン・フェイン党を設立した。この党の目的は、アイルランドが独立共和国になることだった。彼らは地方自治を支持しなかった。3度目の地方自治法案は1912年に提起された。英国保守党はアイルランドのユニオニストを支援して法案に反対した。彼らは、アイルランドの北東部には多くのプロテスタントがいるために、アイルランドの他の部分とは別に扱われるべきであると考えた。ユニオニストは1913年、アルスターで独自の軍隊を設立する。北アイルランド義勇軍(UVF)は、地方自治がアルスターに絶対に及ばないようにするために設立された。同年、アイルランドのナショナリスト(国民主義者)が、アイルランド義勇軍(IVF)を設立する。彼らはアイルランドが地方自治で分割されることを望まなかった。
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翌年、シン・フェイン党はロンドン議会で73議席を獲得した。地方自治党は6議席だけしか獲得しなかった。シン・フェイン党下院議員はウェストミンスター(英国議会)で議席を占めることを拒否し、ダブリンに独自の議会ドール・エアラーン(Dail Eireann)をダブリンで開いた。1919年、IVFは全アイルランド独立を余儀なくさせるという見地からアイルランド共和国軍(IRA)と命名し直された。間もなく独立戦争が始まった。英国はIRAと戦うために、元第一次大戦兵のグループを派遣した。しかし、彼ら「ブラック・アンド・タンズ(Black and Tans)」は、自分たちへの攻撃の報復として、罪のない文民を射殺し始めた。このために、IRA支持が強まった。
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1921年、IRAとイギリスは停戦に署名した。コリンズは英国政府と交渉し、アイルランド自由国(Irish Free State)を作ってナショナリスト議会に代えるという英愛条約(Anglo-Irish Treaty)に署名した。イーモン・デヴァレラはアイルランド自由国の初代首相となった。英連合王国は「グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国」と命名し直された。しかし、32州独立アイルランドを求めたアイルランド・ナショナリストと、条約を支援した人たちの間に分裂が広がった。シン・フェイン党は条約についてドールで投票した。条約賛成64票、反対57票。イーモン・デヴァレラと支持者は抗議してドールから立ち去った。
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1922年、アイルランド内戦が2つのグループの間に発生した。アイルランド軍の長マイケル・コリンズは、戦争中にIRAによって殺された。IRAは条約に反対して戦っていたが、1923年に軍事行動を停止した。その間、北アイルランドでは派閥主義的暴力が急増した。ティローン州とファーマナ州の州議会は、ダブリン議会に責任があると宣言したために解散させられた。北アイルランド政府は戦略上、選挙区境界線を引き直すことによって、州議会のユニオニスト支配を増やした。金持ちほど、土地所有の多さに応じて多くの票を与えられた。
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1927年、イーモン・デヴァレラによって形成された新党フィアンナ・ファーイル(Fianna Fail)がアイルランド自由国選挙に出馬した。この党は英国からの完全独立を求めた。5年後、フィアンナ・ファーイルは政権を握り、デヴァレラは英国支配を縮小し始めた。1937年、デヴァレラは新憲法を提起した。アイルランド自由国はエール(Eire)に改名された。選出された大統領は、国王ではなく、国家のリーダーであった。また、エールの国境はアイルランド島全体から成り立っていた。憲法は、かろうじて国民に認められた。1949年のイースターの翌日、アイルランドのティーシャハ(Taoiseach=首相)ジョン・コステロ(John Costello, 1891-1976)はエールを英連邦から離脱させ、完全独立共和国を宣言した。エールはアイルランド共和国(Republic of Ireland)と改名された。
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1963年、アルスターのユニオニスト、テレンス・オニール(Terence O'Neil, 1914-)が北アイルランド首相となった。彼は北アイルランドの2つの共同体の隔たりをつなぐごうと望んだ。オニールは、アイルランド共和国との関係を改善した。しかし、多くのユニオニストはこれを好まなかった。イアン・ペイズリー(Ian Paisley, 1926-)はプロテスタント・ユニオニスト党を設立し、オニールに強く反対し始めた。1960年代後期、多くの市民権行進が起きた。抗議者は主に、選挙区改変と宗教的差別の終了を欲したナショナリスト・カトリック教徒であった。これらの行進の多くは、政府支持者と勤務時間外の警官によって攻撃された。
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1969年は北アイルランド史上最悪の暴動が起こった。特に、市民権運動への激しい取り締まりに対するものであった。アイルランド首相ジャック・リンチ(Jack Lynch, 1917-)は、カトリック住民を保護するために北アイルランドを侵略すると脅した。英国政府は北アイルランドが崩壊しつつあることを悟り、英国軍にベルファストとデリーに入るよう命じた。1970年、暫定IRAがIRAから分裂し、イギリスに撤退を強いる北アイルランド爆破作戦を始めた。1971年、テロリストがそれ以上の殺人を実行するのを阻止しようとして、北アイルランドで「裁判なき抑留」が導入された。しかし、多くの無実の人々が拘留された。
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1973年、イギリスはユニオニストとナショナリストが権力を共有するような北アイルランド議会を設立した。選挙後、北アイルランド行政府(Executive of Northern Ireland)が設立された。行政府が北アイルランドで稼働する前に、アイルランド共和国が演ずるはずだった役割が定義されなければならなかった。北アイルランド、アイルランド共和国、ロンドンからの代表者が、これについて論じるため、イギリスのサニングデール(Sunningdale)で会見し、2国家間の関係を改善するために働くアイルランド評議会(Council of Ireland)が作られた。サニングデール協定は、行政府に北アイルランド支配を行なわせた。権力分担反対者たちは、共和国が北アイルランドで発言権を持つはずだったことから憤激し、協定廃止を望んだ。
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1974年、ロイヤリスト準軍事組織グループと反サニングデール政治家がアルスター労働者評議会(Ulster Worker's Council)に加入した。評議会は、政府への反対行動を組織し始めた。彼らは議会に、もしサニングデール協定を廃止しなければ、ストライキを行なうと警告した。議会はUWCの要求を無視することを票決したので、ストライキが始まった。2週間後、ほとんどすべての北アイルランドの事業が閉じられた。食物が欠乏し、行政府は倒れ、北アイルランドはロンドンによって再び直接支配されることになった。1970年代の残りずっと、IRAテロ作戦と、それに対するロイヤリストの応酬が続いた。
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1984年、IRAは、英国首相マーガレット・サッチャーを殺そうとして、滞在していたブライトン市のホテルを爆破した。サッチャーは逃げたが、他の5人が死んだ。英国は、和平を達成するまで北アイルランド問題が終わらないことを悟った。英国政府とアイルランド政府は、取り組むべき若干の共通基盤を見いだそうとして秘密交渉を始めた。1985年、両国政府は合意内容を公開した。これが英愛協定(Anglo-Irish Agreement)である。全アルスター・ユニオニスト国会議員が協定に反対したが、両国政府はこれを票決した。 ユニオニストは協定廃止キャンペーンを始めた。アルスター民主統一党(Democratic Unionist Party)のイアン・ペイズリーと、アルスター統一党(Ulster Unionist Party)とJames Molyneauxに率いられて、大衆デモが行なわれた。UUPとDUPは、全英国官僚をボイコットし始めた。デモにもかかわらず、彼らのキャンペーンは1988年までにいかなる進展も得られなかった。この時期の間ずっと、暴力が継続した。
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1993年、英国政府とアイルランド政府はロンドンで会見し、未来の交渉のための原則を提出し始めた。これは、両国が新しい政治機構を開発することにたずさわり、暴力を放棄したいかなる党も協議に加わることを許す、というダウニング街宣言(Downing Street Declaration)になった。1994年までに、IRAは軍事作戦の完全中止を宣言した。ロイヤリスト・テロリストグループは、間もなく、解散を宣言した。 1995年、和平会談が始まったが、シン・フェイン党もロイヤリスト・グループも参加を認められなかった。英国首相ジョン・メージャー(John Major. 1943-)は、対話に参加する前にテロリストは武装放棄しなければならない、と述べた。IRAは、和平プロセスが完成されるまで放棄を開始できない、と激怒した。1996年、IRAは停戦終了を発表し、カナリーウォーフ(Canary Wharf)で大規模爆弾を爆破し、2人が死亡した。
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1997年、新しい英国首相トニー・ブレア(Tony Blair)は、全党協議を再会すると発表した。IRAは新たに停戦を宣言した。同年9月、北アイルランドの政党は和平会談のために同席した。1998年4月10日、対話議長ジョージ・ミッチェル(George Mitchell)は、各党が協定に達した、と宣言した。国民投票が北アイルランドとアイルランド共和国の双方で行なわれ、協定は認められた。北アイルランド議会選挙は6月に行なわれた。
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しかし、ユニオニストは、IRAが武装解除するまでシン・フェイン党と一緒の内閣に加入することを拒否した。IRAは、議会行政が始まったらすぐに解除し始める、と述べた。行き詰まりは、アルスター統一党が議会に加入することを票決したときになくなった。主要政党それぞれが新議会の大臣となり、アルスター統一党のデイビッド・トリンブル(David Trimble)が首相となった。1999年12月2日、ロンドンからの直接統治は、内政権付与命令が可決したときに終わった。 だが、2000年に入って、IRA武装解除が進まないことから、北アイルランド自治政府はまたもや空中分解している。
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