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IRELAND アイルランド歴史資料室 RECORDS

 
1921年1月
ブラック・アンド・タンズ

 

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1921年1月、英国「ブラック・アンド・タンズ(Black and Tans)」による尋問と虐待

ドゥンマンウェイ(Dunmanway)/アハキーラのティモシー・オコンネルの陳述。

私は1921年1月2日の朝、キルミハエル(Kilmichael)待ち伏せの場所から約1マイルのところで逮捕されました。

階下で誰かが「タンズだ!」と叫んだとき、私はたまたま友人の家にいました。ベッドから飛び起きて、2階の窓から見下ろすと、100ヤードほど向こうの道路に二台のトラックがありました。どちらのトラックの乗員も道に出て、双眼鏡であたりを調べていました。わたしはズボンとコートをあわてて着たのです。そのコートは、パット・ディージーが約5週間まえにキルミハエル待ち伏せで致命的に傷ついたときに着ていたものでした。弾丸の穴がはっきりと見え、Auxiesが真実を知ってくれるよう、神に祈りました。

私は家から少し走って、家が私と敵の間にくるようにしました。そして、何か隠れるものを探して原っぱを横切り、道を離れたとき、突然あちこちから狙撃されました。そして私は、どの場所も包囲されていて、逃げる望みはまるで絶たれたことがわかったんです。私は茂みや見つけることのできた遮蔽物を通って身をかわし続けたんですが、役に立ちませんでした。逃げる望みはないことがわかって、私はまだ撃ち続けられている銃弾から逃れるため、低い石壁のところに伏せました。連中は私に出てくるように怒鳴っていました。もし自分の姿を見せたら弾丸で穴だらけになることはわかっていました。連中は私が伏せているところにやってきて、私を立たせました。最初の質問は「どこに当たったか?」でした。私は当たっていないと言いました。こんな短距離で一流の狙撃手だったのに当たらなかったと知ってがっかりしているようでした。

次の動きは、道に出て、トラックの上に乗ることでした。しかし、そこに運び込まれる前に、私はオマケとして思い切り殴られました。その朝はとてもみぞれまじりの雨でひどく寒く、さらに悪いことに私はコートとシャツだけでほとんど服を着ていなかったんです。ブーツを履く時間さえありませんでした。しかし、寒さはそれほど気になりませんでした。それより、殴られて広がる血のほうが気になったものですから。

トラックは、私が捕えられた Shanacashel から Copeen に移動しました。そう遠くまでいかないうちに、私をよく知っている人が自転車に乗っているのに出会ったので、連中は車を止めて、「囚人を知っているか」と尋ねました。彼は「いや、以前に会ったことはない」と言っていました。これはCoppeenに着くまで3回も起こり、3人とも私を知っている人でした。彼らが知らないと言ったのは、私が偽名を使っているのではないかと思ったからで、私をさらに窮地に追いやりたくなかったのです。

Coppeen村に着く前にトラックは止まりました。降りるように命ぜられて、フェンスの側に立つよう言われました。5、6人がライフルを構えて道に立っており、いつでも一斉射撃されることを覚悟しました。私は目を閉じて待ちましたが、それはこなかったのです。我々は村に行って、そこでまた P Murphy氏の店の壁に向かって立たされました。連中がマーフィー氏と話しているのが見え、同時に私の道も見えました。結局、連中の一人が私のところにやってきて、この男(マーフィー氏)が命を助けてくれたことを感謝しろと言いました。もし彼が私の本名を告げていなかったら――もちろん、私が言っていたのと同じだった――私の頭は吹っ飛んでいたのです。

連中はCoppeenから南に一マイルほど Castletown に向かい、次の十字路で右に曲がって数マイル進み、そこで連中は一人の老人を逮捕しました。連中は、長いヒモのついた手榴弾のピンを抜いてポケットに入れて爆破するぞ、と脅していました。連中はこういうことばかりやって楽しんでいたんです。連中は私が逃げてきたShanachashelの家に戻り、その場所を完全に捜索しましたが、何も見つかりませんでした。そこから連中は Lisheenleighの小区へ移動しました。そこでは、仲間のキャプテンJim Crowleyを含む我々の仲間たちが寝ていました。この家は、400メートルほど道から外れています。連中はそこに最も近い場所にトラックを止め、標的に向かって原っぱを横切っていきましたが、手ぶらで帰ってきたのでがっかりしていました。「逃げたばかりのようで毛布がまだ暖かかった」というのが聞こえました。

次の最後の移動は、そこから Dunmanway 貧民収容施設本部まででした。私は詰め所に連れて行かれ、そこで服を全部脱いで捜索されることになりました。彼らが見つけたのは肩掛けだけで、それは首から取られて火で燃やされました。私は服を着るように命ぜられ、建物の裏に連れて行かれて、手動ポンプをみせられました。私は家に水を運ぶ作業をするよう命ぜられたのです。この仕事は休みなしに1時間以上続き、私の手のひらは痛んで出血していました。私はほとんど立てないくらいでした。そのとき、最後に食べたり、あるいはお茶を飲んでからでさえも24時間ほど経っていました。

そのとき、他にも囚人はいましたが、私は詰め所に戻らされ、そこで夜中まで床に横になりました。そして、三人のAuxiesが来て、立つように命じられたのです。一人が前、二人がすぐあとについて歩かされました。私たちは建物の裏で、一番上の階まで階段を上りました。部屋に入れられ、部屋を半分くらい過ぎたとき、でかくて荒々しいリーダーが突然振り返り、何が起こっているかわからないうちに、一殴りしてわたしを床から持ち上げたんです。彼は私を落としませんでした。私は立ち続け、ダウンするまであと何発かやられました。他の二人が銃剣を持って私のところに来るまで、私は起きあがろうとしませんでした。それから私は顔を覆って守りながら立ち上がりました。もう一度、さらに荒っぽい男は強打を何度か加え、再び私は倒れました。それまでに血で窒息しそうでした。もう一度私は立つように強いられ、顔を殴られる罰をさらに受けました。ついに私は動けなくなりました。撃ってくれと頼みました。巨漢は「いや、俺たちは貴様の血で手を汚したくはない」と言ったのですが、連中の手は血塗れで、床や服も血塗れでした。

結局、Auxiesの1人が階段の上まで引っ張っていって、私を立たせようとしました。ここで巨漢は私を蹴飛ばしたのでほとんど転げ落ちるところでした。私は立ち上がり、何とか明かりのついていない私の房まで歩いていき、そこで朝までのたうち回りながら横になっていました。私の顔はゼリーの固まりのように腫れ上がって両目がほとんどふさがるくらいで、鼻は折れてしまっていました。朝食をもらいましたが、葉が唇を裂いていて、わずかな隙間しか口を開けることができなかったので、食べることができませんでした。この小さな隙間から、連中は私にスープを飲ませたのですが、固形物を食べたり飲んだりできるようになるには一ヶ月くらいかかりました。

私がたたきのめされてから数日後、私は実力者たちであるLatimer、De Havilland、Sparrowの前に連衡され、尋ねられました。彼らの質問への答えはすべて、彼らの言う人物や話した内容をまるで私が知らないということがわかったということです――連中が知りたいことは実はよく知っていたのですが。連れて行かれる前に、「明日の朝6時までに、持っている情報をいう気になっておけよ」と言われました。房に戻る道で、私は別の小部屋に連れて行かれましたが、その壁は銃丸のような痕跡と血で汚くなっていました。私は、情報を与えることを拒んだシン・フェイン党員たちがどのようにこの壁に向かって撃たれたか、また私の順番が遠くはないということを言われました。

翌朝6時の鐘が鳴ったときに私は実力者の前に連衡されました。彼らはそれぞれ手に銃を持っていました。一人が後ろに立って、銃を首に当てました。彼らの欲しい情報を話すつもりになったか、といういつもの質問から始まりました。私は、何も与える情報を持っていない、と言いました。30分くらい私にうるさく言いましたが、私は答えることを拒否しました。一人が私をすぐに撃とうと言いましたが、他の人が止め、私は房に戻されて、それ以上の質問はされませんでした。

私はまた詰め所に連れて行かれ、ほとんど監禁状態のまま、ある日――どうしてそうなったのかわかりませんが――母と隣人が私の詰め所に入ってきたのです。どうやって警備をやり過ごしてきたか、いまだに私にはよくわかりません。私は部屋の真ん中の椅子に座り、二人はドアのすぐ内側の腰掛けに座って、その間には六フィートもありませんでした。10分ほど二人は私のことがわからず、突然女の子のほうが何か手がかりを見つけたのです。そのとき、女の子は母のほうを向いて「ティムよ!」と言ったのです。母は私に向かって叫びながら駆け寄りましたが、すぐに手荒く扱われてドアから投げ出されてしまいました。

それから1、2週間後、私たち三人は人質としてCorkに連行され、遅くDunmanwayに戻ってきたのです。私はこのときまでに他の囚人といっしょになっていました。彼らは私が後をついてくるまで待って、私たちを歓迎する大きな火を焚いていました――天気はあまりにも寒かったのです。私たちは当然、できる限り火に近づき、約10分後、私の顔から一インチほどの厚さのかさぶたが剥がれ落ちました。それで私はやっとふつうに見えるようになったのです。

それからすぐのある月曜日の朝、私は他の2人の囚人、Coppeenのバレット(Barrett)兄弟とともに呼ばれました。Auxiesでいっぱいの3台のトラックが結集していました。我々は各自別々のトラックに乗るように命ぜられ、トラックが一発撃たれたら3人とも直ちに撃たれるだろうと言われました。最初に止まったのは、前の晩に攻撃されていたBandonの軍事兵舎でした。我々はトラックから離れるよう命じられ、門を通るように蹴られました。それからAuxisは軍に、「こいつらを道で逮捕した」といい、前日の攻撃に私たちが参加していたとわからせました。当然、軍は私たちを背後に入れるように決めました。私たちは浴場のある兵舎の端に連れて行かれ、すべての服を脱いで、シャワーを浴びるよう命じられました。冷水蛇口が開いていました。ひどく寒い朝で、水はほとんど凍っていました。私たちは、ほとんど生命がなくなるまで、冷水の噴射の下で立たなければなりませんでした。そして軍は、我々がちゃんと黒目でシャワーを浴びるよう、この事態の間にパンチを引っ込めませんでした。

私たちはまたバラック広場に戻され、そこで空の棺桶をみせられました。それは私たちそれぞれのものだと言われました。私たちは3時から1時間ごとに射殺されることになっていました。すこしたって、4人の軍人がバラックの後ろから担架に横たわる少年を連れてきました。私たちは、死体を知っているかと聞かれました。それで知らないと答えました。私たちはそれから死体を棺桶に入れるよう命じられました。一本の腕は曲がっていて固くなっており、私は横からそれを押し入れました。そうやった途端、一人が私を叩いてうち倒し、もう一人が私の手をブーツで押し、どちらも穏やかではありませんでした。私たちは私たちは棺桶の上にフタを載せ、持ち上げてバラックの門の外に待っているトラックに持っていくように言われました。後で、その死体は前の晩に殺された義勇兵ダニエル・オライリー(Daniel O'Reilly)であったことを知りました。

私たちはBandonの軍事兵舎で1〜2週間勾留されました。毎日、新しい囚人が連れて来られ、間もなく30人になりました。それから土曜日の真夜中、私たち14人がペアで手錠でつながれ、豪雨の中、屋根のないトラックでKinsaleに移動させられました。故・旅団物資補給係将校ディック・バレット(Dick Barrett)が私たちの一人となっていました。Kinsaleに到着するや否や、私たちはトラックから降りるよう命じられ、Charles Fortまで野原を横切って行進させられました。そこに私たちが到着すると、手錠の鍵がBandonに置き忘れられたことがわかりました。それで我々は、翌日の何時ごろかにカギが到着して手錠が取られるまで、毛布もなしに冷たい床でペアになって寝なければなりませんでした。

次の日曜日、私たちはコーク軍事兵舎行きの列車に乗せられました。そこで私たちは、たくさんの通気孔のある板鉄小屋に収容されました。私たちはタバコ一服すらないよう、閉じこめられる前にポケットを空にさせられました。1週間ぐらい後、私たちはそれまででいちばんマシで、安全な場所だったコーク刑務所に移送されました。というのも、私たちはAuxies, Tansと軍人から切り離されたからです。私はそこでさらに3週間ほどすごし、それからスパイク島(Spike Island)まで川を下りました。毎日新しい囚人が到着して200人ほどになり、そのすべてが強制収容令状を渡されていて、戦争期間中ずっと抑留されることになっていました――全員、つまり、私以外は。

当然、私は次に何をされるのか、疑っていました。しかし、私はあまり長い間待たなくてもよかったのです。二ヶ月ほど後、収容所に、私をコーク軍事兵舎に戻らせるよう命ずる電信が届きました。これはあまりうれしく聞こえませんでした。私たちのスパイクでのO/C、ヘンリー・オマホニー(Henry O'Mahony)は、ニュースを聞いたと手紙を送ってきました。彼は、私が逮捕された時までの活動について述べるように頼んできました。私は彼にすべてを話し、私が軍法会議にかけられるはずであったという結論に彼は到達しました。彼の直感が正しければ、法的扶助、目撃者などを再申請するよう、教えてくれました。彼は、私がKilmichael待ち伏せに参加したと告発されることを恐れていました。アドバイスに加えて、彼は道中役立つよう、私に自分の服と現金をくれました。私は決してこのヘンリーの親切を忘れません。

真夜中に武装守衛が到着し、港まで私を行進させ、私はコーク行きのボートに乗せられました。私たちが上陸したとき、自動車と2人の士官が待っており、私を兵舎に自動車を連れていきました。彼らはその時までにそこにさらに2つの小屋を建てており、すべて囚人でいっぱいで、私が知っていた唯一の人はディック・バレットでした(彼がKinsaleから釈放され、再逮捕されていたことを述べるのを忘れていました)。私が小屋に入った時、彼は睡眠中でした。午前5時ごろで、私がその時間にどこから来たか、彼は想像できませんでした。私は彼の横に座り、物語を話しました。彼はそれはひどいと考えました。

その小屋には、私の知らない一人の囚人がいて、それはパディー・ヒギンス(Paddy Higgins)という名前のClonmult生存者の一人でした。彼は争いで傷ついており、囚人にされていました。1〜2週間後、彼と私は呼ばれ、軍法会宿舎に行かされました。私がドアの外に引き留められている間に彼が中に導かれました。彼は15分も経たずに出てくると、コーク刑務所に向かうトラックに乗せられました。彼は死刑宣告されたのです。私は質問をされないで小屋に連行されました。これはおよそ3回あり、毎回囚人は判決を下されましたが、私は処刑部屋のドアの中には連れて行かれなかったのです。次の動きがあるまで2週間たち、Bandonに戻ることになりました。私はそこでもう2〜3週間過ごし、最終的にAuxiesが泊まるDunmanway貧民収容施設に移動させられました。5月11日、私は暫定的に釈放され、毎週土曜日の朝11時に報告することを命じられました。私がその建物から出た途端、あの殺人犯のギャングと面と向かい合うことがあるなら、そのときは手に銃を持っているよう、祈りました。

(署名)ティム・オコンネル(Tim O'Connell)
(署名)ジェームズ・クロウリー(James Crowley)Company O.C(目撃者)

 

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