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IRELAND アイルランド歴史資料室 RECORDS

 
1972年1月30日
デリー市 血の日曜日

 

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デリーで13名死亡
1972年1月30日
血の日曜日(Bloody Sunday)

1972年1月30日、クレガンからフリー・デリー交差点へのおだやかな市民権行進のあと、英国軍パラシュート連隊は自動小銃を発砲し、武装していない市民13人を殺害し、それ以上に傷害した。その数日前に兵士たちは行進で「射殺する」よう命ぜられていたことがあとでわかった。

「この日曜日は血の日曜日として知られるようになった。それは血みどろであった。まったく起こらなくていいはずのものだった。軍がその日出動して、何をやっているのかを考えずに発砲したのには驚いた。彼らは何の罪もない人々を撃ったのだ。

「たしかに彼らは禁止されていたパレードに参加していたかもしれないが、だからといって部隊がやってきて無差別に生きている集団に発砲することが正当化されるわけではない。それはまさに純然たる殺人であったとわたしはためらいなく言おう。それは殺人紳士であった」

英国軍によって殺害された13人の検視結果において
――デリー市検死官ハバート・オニール(Hubert O'Neill)少佐。

 

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  • JACK DUDDY (17) は、ロスヴィル(Rossville)通りフラットの中庭で偶然出会ったときに、Parasに1発撃たれた。
  • HUGH GILMOUR (17) は、ロスヴィル通りを駆け上がったとき、腕からまっすぐ体に貫通した弾丸のために殺された。
  • BERNARD McGUIGAN (41) は、ロスヴィル・フラットのそばのPat Dohertyの体に向かって進んでいたとき、後頭部を打ち抜かれて即死した。
  • GERALD McKINNEY (35)は、グレンファダ公園(Glenfadda Park)の兵士に向かって手を挙げて走っていたとき、胸を打たれて殺された。
  • WILLIAM McKINNEY (26) は、グレンファダ公園のGerald McKinneyの上に体をかがめたときに射殺された。
  • KEVIN McELHINNEY (17) は、ロスヴィル通りの戸口に向かって進んでいるときに殺害された。弾丸は肛門から1インチのところの尻から入り、体内を突き抜けて肩のあたりから抜けた。
  • JOHN YOUNG (17) は、ロスヴィル通りに置かれたがれきのバリケードのそばに立っていて、頭を撃たれて殺された。
  • MICHAEL McDAID (20) が顔面を撃たれて死んだとき、同じバリケードの横に立っていた。
  • WILLIAM NASH (19) が胸を撃たれて死んだとき、同じバリケードのところにいた。
  • MICHAEL KELLY (17) はロスヴィル通りからグレンファダ公園への入り口近くのがれきの山のところに立っていたとき、胃を撃たれて数分後に亡くなった。
  • GERALD DONAGHEY (17) は、アベイ公園(Abbey Park)のフラットに向かって駆け上がっているときに腹部を撃たれ、病院に着く前に亡くなった。
  • PATRICK DOHERTY (31) は、ロスヴィル・フラットに向かって進んでいるとき、尻を撃たれて、その弾丸は体を貫通して胸から出、即死した。
  • JAMES WRAY (22) はグレンファダ公園からアベイ公園への裏通りを走っているときに撃たれて傷つき、再度撃たれて亡くなった。
  • JOHN JOHNSTON は14人目の犠牲者。血の日曜日、Parasによって最初に撃たれ、6か月後に亡くなった。

 

 

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フルヴィオ・グリマルディ(FULVIO GRIMALDI)が目撃したこと

 1972年1月31日月曜日、デリー市にいたイタリア人ジャーナリストのフルヴィオ・グリマルディ氏は、ラジオ・エーランのインタビューに答えて、目撃したことを描写した。

「それはまるで信じられなかった……わたしは多くの国々を旅してきて、多くの内戦や革命や戦争を見てきたが、こんな無血の殺人、組織的で訓練された殺人、計画殺人は見たことがない」

「ウィリアム通りの軍隊によって築かれたバリケードに行進が近づいたとき、わたしは行進の先頭にいた。いくつかのやり合いがあり、重いとはいえない石を投げる人も数人いた。それから、3分か4分後、軍はこの放水銃を持ち上げ、着色された水を群衆に吹きかけた。それで群衆は分散した」

「続いて、群衆は戻ってきて何人かがまた投石した。北アイルランドの他のところで見たようなものではなく、本当に重い石などではなかった。その後、軍は大量にガスを使い、群衆はフリー・デリー交差点にあった集合場所に向かって散らばった。群衆が動いた。それは約数千人だったのだが――完全に穏やかであった。というのも、ガスを浴びていて、ほとんど息もできず、多くの人が苦しんでいたのだから――そして突然、フリー・デリー交差点の後ろの場所で――ロスヴィル・フラットというところだと思うが、軍、パラシュート部隊が忍び寄った。

「そして別の落下傘兵が徒歩で続き、飛び跳ねた。人々は、兵士たちは別のガスを撒くのだと思い、急いで分散し、フリー・デリー交差点に押し寄せた。軍は飛び越えて、すべての方向に射撃を始めた。わたしはこの写真を取った。この記録を残した。そして、わずかな挑発すらなかったことは疑いのないことだ。

殺人的な怒り

「一度たりとも発砲されたことはなかった。釘爆弾も一つとして持っていなかった。彼らは飛び越えて、避難群衆に向かって、信じられない殺人的な怒りを放った」

グリマルディ氏は、落下傘兵が発砲する以前に、ロスヴィル・フラットからの発砲がなかったか、と聞かれて答えた。「絶対に間違いありませんし、テープの証拠もありますが、これは事件のすべてを記録しています。まったく何の発砲もなく、爪爆弾すらなく、まったく何もなかったのです。群衆は分散していました」

 軍はフラットの上にいる狙撃兵を撃ったのだと主張しているという事実があるが、それ以外に、通りには死傷者がいなかったか、と尋ねられて、彼はこう答えた。「わたしが見たことを言わせてほしい。彼らは通りと公園にいただけだ。わたしは男性とその息子が通りの安全な場所を探して、手に手をとって横切っているのを見た。彼らは撃たれて死んだ。男性は射殺された。息子も死んでいたと思う」

「わたしは、傷ついて壁にもたれている若者に会った。彼は叫んでいた。『撃つな、撃つな』と。落下傘兵は近づいて、1ヤードのところから撃った。また、恋人をかばっている15歳の若者が壁にもたれていて、片手でハンカチで彼女を救おうとし、もう一方の手で防止をつかんでいるのを見た。落下傘兵は近づいて、1ヤード離れた所から胃を撃ち、その腕の中の少女を撃ったのだ。

倒れた少年

「公園の中央で倒れた少年を助けようとして聖職者が近づくのを見た。たぶん、最後の祈りをささげようとしたのだろう。すると、軍が――一人の落下傘兵がひざまずき、狙いを定めて狙撃するのを見た。聖職者は腹這いになってなんとか逃げた。わたしはまたフランス人の同僚が、『報道、報道』と叫びながら腕を上げて、真ん中に行って倒れた人を助けにいったが、落下傘兵はまたひざまずいて狙いを定めた。すばらしいアクロバット的なジャンプで彼は何とか逃げることができた」

「私自身は、5回発砲された。窓の後ろで守られたある階にいた。窓に近づいて写真を取ろうとした。するとすぐに窓越しに5発の弾丸が撃たれ、わたしは彼らが失敗したのかどうかわからなかった」

グリマルディ氏は、このときのボグサイドの人々の雰囲気について尋ねられた。彼は言う。「パニック状態。まさに絶望であり、フラストレーションだった。人々が叫び、老人が叫び、14歳、13歳、15歳の友人を失った若い少年が叫んで、わけがわからなくなっていた。驚きがあった。当惑があった。激怒とフラストレーションがあった」

 

 

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デリーでの狙撃のあいだ、英国軍無線会話の一部の記録テープから。

「貴様の母さんは軍に殺されたぁ、Doo da, doo da」(歌声)。静穏……「また発砲だ……拳銃は下の方を狙え……ロジャー、了解。出ろ」……静穏……(発砲音)……「ヤッホー! よくやった! そのまま」……「下の方を撃てと言ったんだ……タマだよ」……「以上」……

 

 

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彼らの言ったこと

英国落下傘連隊の第1大隊の司令官、デレク・ウィルフォード(Derek Wilford)大佐への手紙が漏れて、デリー虐殺の次の日曜日、サンデープレスの一面に掲載された。これは、BRIGADIER FP BARCLAY, DSO, MCDL,ロイヤル・ノーフォーク連隊の大佐からのもので、こう書いてある。

Little Dunham Lodge Kings Lynn Norfolk 1972年2月1日

ウィルフォード様
君の部下たちが先週の日曜日、連中に対する行動をいかに遂行しているかというのをテレビで見て、元落下傘旅団司令官としてどれほど誇りに感じているかを書こう。彼らは豪華に見えるし、いつものように、タマを撃っていたな。

わたしや多くの人は、今回のような迅速な報復行動は長らくなかったと思っている。それは最も有益な効果を上げるだろうということを、わたしはほとんど疑っていない。長い空白ののちに起こったことだろう。

法と秩序、義務や前途といった考えのない連中や臆病者どもから投げつけられることを正当化できないがおそらく避けることのできないレンガのかけらや責め合いを君は首尾よく切り抜けられるとわたしは心から信頼している。

ご多幸を祈って

敬具

Peter Barclay

 

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