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IRELAND アイルランド歴史資料室 RECORDS

 
アイルランド歴史年表

 

 

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ケルト十字架
石器時代からの歴史遺物は、アイルランドができて8000年以上であることを示している。その当時、アイルランドに住んでいた人々についてはほとんど知られていない。ケルト族はヨーロッパ大陸からアイルランドに紀元前500年ごろに来た。彼らはゲール語を話し、島を何百という独立王国に分割して、それぞれに王がいた。

紀元前500年ごろ ヨーロッパ大陸からの影響でアイルランドでも製鉄が始まる。

367年 アイルランド人が大挙してローマ支配下のブリタニアを襲う。

 

 

聖パトリック
5世紀、聖パトリック(Patrick)と呼ばれるキリスト教司教が、異教徒をキリスト教に改宗させるため、ローマ法王によってアイルランドに送られてきた。聖パトリックはアイルランドを旅行して多くの王に会い、王たちと臣民たちを改宗させた。彼の死までに、アイルランドはヨーロッパで最もキリスト教化された地域となっていた。

 

 

9世紀、バイキングがアイルランドを侵略し始めた。9世紀半ばまでに、多くのバイキングがアイルランドに定住していた。彼らはアイルランド人と混ざっていき、アイルランドの文化と言語を学んだ。彼らもキリスト教徒になった。バイキングはアイルランドに多くの町を設立したが、その最大のものはダブリンであった。

919年09月15日 アイルランド上王ニールがダブリン付近でヴァイキングに敗れて戦死。

11世紀はじめまでに、アイルランドには最初の上王(high king=アードリー)――ブリアンボルー(Brian Boru, 941-1014)――が登場していた。ブリアンボルーの王国はクレア(clare)のダルカス(Dal Cais)である。王は最初に領土でバイキングをうち負かし、すぐにアイルランド南西の統治権を握った。次に、ウイ・ネイル(Ui Neill)氏族がアイルランドの北部・東南部で敗れた。ブリアンボルーの死後、すべてのアイルランド王が上王だと名乗った。戦争が1世紀以上諸国で繰り広げられた。

 

 

1170年、ウェールズ伯ストロングボウ(Strongbow)に率いられてイギリスから来たノルマン人がアイルランドを侵略した。彼らは間もなくダブリンの支配を握り、ストロングボウはレンスターの王になった。翌年、イングランドのヘンリー2世は、ストロングボウ王国に権力を及ぼすためにアイルランドに来た。ヘンリー2世はローマ法王からアイルランドで教会を改革するよう依頼されていた。ローマ法王は、アイルランド人がヘンリー2世を支配者として受け入れるよう命じた。

1171年10月16日 イングランド王ヘンリー2世がアイルランドに上陸。アイルランド貴族がヘンリー2世の宗主権を認める。

 

 

15世紀までに、アイルランドにおける英国支配地は、ダブリンを含む幅約20マイルの細長い地域に減っており、ペイル(Pale)と呼ばれる。これには多くの理由があった。多くの英国王たちはアイルランドに対する興味を失っていたのだ。バイキングのようなノルマン人たちはアイルランド人と結婚し、アイルランド語を学んだ。彼らはイギリスにほとんど忠誠を持っていなかった。

1316年05月02日 スコットランドのエドワード・ブルースが、アイルランドに侵入する。
1318年10月14日 エドワード・ブルースがダンドーク付近でイングランド軍と戦って敗死する。
1380年06月10日 イングランド艦隊が、アイルランド沖でフランス艦隊を撃破する。

1487年05月24日 イギリスの庶民出身のランパート・シムネル(Lambert Simnel, 1475-1535?)がアイルランドで「エドワード6世」を称して戴冠式を行ない、反乱を起こす。ヨーク家の残党とともにランカシャーに上陸するが、敗北。その後、ヘンリー7世に台所係として雇われる。
1494年10月03日 アイルランド総督としてポイニングズ(Sir Edward Poynings, 1459-1521)が派遣される。
1494年10月12日 アイルランド総督ポイニングズがドロイーダ(Drogheda)に議会を召集し、立法権がイングランドに従属することを定める。ポイニングス法を制定(アイルランド議会はイングランド国王とその枢密院の認可なくして召集できない/イングランドのすべての既存の法律がアイルランドにおいても有効である。

 

 

ヘンリー8世

16世紀中ごろ、ヘンリー8世がアイルランドの英国支配を再確立しようとした。ペイルは無理やりに拡大された。しかし、ヘンリーは多くのアイルランド貴族と和平を結んだ。貴族たちはヘンリー8世を国王と認め、そのかわりにイギリスから攻撃されずにいた。

1541年、ヘンリー8世は、ローマ法王の願いに逆らって、イングランド王兼アイルランド王となった。16世紀にプロテスタント宗教革命が起きた。イギリスの教会は、ヨーロッパのプロテスタント教会に似るようになった。アイルランド人は、教会の変化を受け入れることを拒否し、ローマ・カトリックのままでとどまった。

1541年01月23日 ヘンリー8世がアイルランド国王を称する。

 

 

17世紀の始めまで、アルスターはアイルランドにおける純粋なケルト人が生き残っている最後の地域であった。イギリス人はアルスターを支配するためには、プロテスタントの移住者をアルスターに植民しようと考えた。移住者の大多数はスコットランド人であった。彼らは新しい形式のキリスト教、長老教会派(プレスビテリアン)を携えてきた。多くのアイルランド生まれの人々が移住者の使用人とされた。

1594年8月 アイルランドでヒュー・オニールらがイギリスの支配に対して反乱を起こす。反乱軍はスペインに援助を求める。
1595年02月16日 アルスター地方の族長ヒュー・オニールがオニールの反乱を起こす。

1603年04月09日 ヒュー・オニールが降伏。イギリスのアイルランド征服が完成する。

 

 

ウィリアム王

1688年、戦争がヨーロッパで発生した。一方の陣営はフランスであり、もう一つの陣営は対仏大同盟(スペイン、オランダ、ドイツ、プロイセンなど)であった。大同盟の指揮官は、オランダのプロテスタント、オレンジ公ウィレムであった。当時のイギリス国王は、カトリック教徒ジェームズ2世だった。ジェームズの娘メアリーは、オレンジ公ウィレムと結婚した。ウィレムは、英国王位継承者となったのである。

1688年11月、ウィレム(ウィリアム)は英国議会に招かれて、英国王になった。ジェームズ2世はフランスに逃げた。1689年、ジェームズ2世は英国王位のための戦いを始めるため、アイルランドに上陸した。ジェームズは強い陸軍を持ち、多くの地域からウィリアムのプロテスタント支持者を一掃した。1690年、大同盟軍がウィリアムに手を貸すためにベルファストに到着した。フランスのルイ16世はジェームズを支援する兵を送った。ウィリアムとジェームズはミース州のボイン河で軍を対峙させた。そこでボイン河の戦いが起こってウィリアムが勝利し、ジェームズはフランスに亡命した。

1641年11月02日 アルスター地方でカトリック教徒の反乱。多くの入植者が殺害される。
1649年08月25日 クロムウェルがアイルランド蜂起鎮圧のため遠征して上陸。
1673年 イギリスが審査律制定。公職につく者は国王に忠誠の誓約をし、英国国教会による聖餐を受けねばならないと規定。
1690年07月11日 イギリス国王ウィリアム3世の軍が、ボイン湖畔の戦いで前国王ジェームズ2世のアイルランド・フランス連合軍を破る。
1691年07月22日 ウィリアム3世のイギリス軍が、オーグリムの戦いでアイルランド・フランス連合軍を破る。

 

 

このあと、アイルランド議会で、アイルランドからカトリックを一掃するための「刑罰法規」が可決した。1728年、カトリックが投票できないようにするもう一つの法律が可決された。長老派教会も町議会から追放されて苦しめられた。ユナイテッド・アイリッシュメンがイギリスに対して1798年に起こした反乱(プロテスタントのウルフ・トーンに率いられていた)のあと、アイルランド共和主義に対する措置がとられた。1800年、合同法が可決された。新しい国が作られた。グレートブリテンならびにアイルランド連合王国である。新しい旗のユニオンジャックも作られた。アイルランド議会は廃止され、アイルランドは直接ロンドン議会によって支配された。

1742年04月13日 ヘンデルのオラトリオ「メサイア」がダブリンで初演される。
1755月08月06日 アイルランド民族運動家ダニエル・オコンネル(Daniel O'Connell)生誕。
1769年06月18日 イギリスの政治家カースルリー(Henry Robert Stewart Castlereagh, Marquess of Londonderry)生誕。
1782年05月17日 イギリス議会が、アイルランド議会に立法的独立を与える。
1782年07月27日 アイルランドでポイニングズ法が修正される。
1791年10月14日 プロテスタント弁護士ウルフ・トーン(28)らが民族運動組織「ユナイテッド・アイエイッシュメン」を結成する。
1800年02月05日 アイルランドのダブリン議会が、英国ウェストミンスター議会との合同を可決する。ただし、アイルランド議員は貴族院28名、下院100名に限定。

1801年01月01日 イギリス連合王国の艦船に使用するユニオン・フラグに、アイルランドのセント・パトリック・クロスが加えられ、現在のユニオン・ジャックの原型ができる。
1803年07月23日 ダブロンで、ロバート・エメット(Robert Emmet,25)が反イギリス蜂起。
1803年09月20日 ロバート・エメットがダブリンで処刑される。
1822年08月03日 アイルランドとイングランドの合併を成功させたイギリスの政治家カッスルリー(53)が喉を切って自殺する。
1822年12月14日 オレンジ党員がイギリス人総督を襲い、ダブリン市内で暴動が発生する。
1823年05月12日 アイルランド分離運動の指導者・民族運動家ダニエル・オコンネルが、ダブリンでカトリック協会を結成する。
1829年 カトリック教徒解放令成立。カトリックに対する政治上の差別が撤廃される。

 

 

飢饉

1840年、アイルランドには800万人以上の人口があった。当時の主要作物はジャガイモだった。法律の下、カトリック教徒は土地を所有することができなかったため、ジャガイモは、集中的な農作物であったので非常に人気が高かった。1845年、ジャガイモ胴枯れ病が多くの収穫をだいなしにした。翌年、収穫は全滅した。何千という人々が餓死し、極めて多くの人がアメリカに移住した。(売るためのジャガイモがなくて)賃貸料を支払うことができなかった借家人は、家主によって立ちのかせられた。1900年までに、人口は40%以上まで落ちていた。

1843年10月08日 ダニエル・オコンネルが、クロンターフで開催予定の大決起集会をイギリス政府の禁止命令で断念する。
1847年05月15日 ダニエル・オコンネルがジュネーヴで没(91)。
1848年07月29日 オコンネルから分離した愛国運動急進派の青年アイルランド党蜂起。
1858年03月17日 ダブリンで、独立共和国を目指す秘密結社・フェニアン団(Fenian Brotherhood)が結成される。
1865年06月13日 作家イェーツ(William Butler Yeats)生誕。
1869年07月26日 イギリス政府が、アイルランド国教会制度の廃止立法を制定する。

 

 

パーネル

1870年代、立ち退きがふくれ上がり続けた。地方自治党(Home Rule Confedernce)がアイザック・バット(Isaac Butt, 1813-79)によって組織された。党は、自らの権利で法律を通すアイルランド議会を求めたが、英国からの独立は求めなかった。1879年、地方自治党首チャールズ・スチュワート・パーネル(Charles Stewart Parnell, 1864-91)は、新たに形成された土地同盟(Land League)の代表になった。国民同盟は借家人の権利を拡大し、立ち退きを減らすように望んだ。家主たちのボイコットが始まり、暴力が燃え上がった。

1870年08月01日 小作人の諸権利を保障するアイルランド土地法が成立する。
1871年01月01日 アイルランド国教会が廃止される。
1874年06月05日 アイルランドで憲法が発布される。
1879年10月21日 アイルランド土地同盟が結成される。
1882年05月06日 フェニックスパーク暗殺事件。アイルランド担当国務相フレデリック・キャヴェンディシュ卿(Lord Frederick Charleds Cavendish, 1836-82)と、次官のトーマス・バーク(Thomas Henry Burke, 1829-82)が、ダブリンでフェニアン団に暗殺される。
1882年07月12日 イギリスで犯罪防止法が制定され、アイルランドにおける陪審裁判制の停止、警察権力の強化などが規定される。
1885年08月14日 イギリス議会が、アイルランドに対する小作人土地購入促進法を制定する。

 

 

1886年、英国首相グラッドストンは、アイルランド問題を解決し、終わらせるために、最初の地方自治法案を提起した。それはロンドン議会で破棄された。アイルランドの多くのプロテスタントは、地方自治を欲していなかった。彼らはアイルランドのユニオニスト(統一論者)である。1893年、グラッドストンは2度目の地方自治法案を提起した。それは英国下院を通過したが、上院で破棄された。

1890年10月16日 マイケル・コリンズ(Michael Collins)生誕。
1900年01月05日 アイルランドの土地解放と民族の独立を叫ぶ連合国民党のレドモンド(John Edward Redmond)が民衆に蜂起を呼びかける。

 

 

1905年、アーサー・グリフィス(Arthur Griffith, 1872-1922)は、新グループ、シン・フェイン党を設立した。この党の目的は、アイルランドが独立共和国になることだった。彼らは地方自治を支持しなかった。3度目の地方自治法案は1912年に提起された。英国保守党はアイルランドのユニオニストを支援して法案に反対した。彼らは、アイルランドの北東部には多くのプロテスタントがいるために、アイルランドの他の部分とは別に扱われるべきであると考えた。ユニオニストは1913年、アルスターで独自の軍隊を設立する。北アイルランド義勇軍(UVF)は、地方自治がアルスターに絶対に及ばないようにするために設立された。同年、アイルランドのナショナリスト(国民主義者)が、アイルランド義勇軍(IVF)を設立する。彼らはアイルランドが地方自治で分割されることを望まなかった。

1905年11月28日 ダブリンで、独立を目指したシン・フェイン党(Sinn Fein)が成立する。
1907年10月18日 アメリカ・アイルランド間に無線電信サービスが開始される。
1913年07月12日 アイルランド自治法に反対する15万人の集会が開かれる。独立運動が活発になる。
1913年08月31日 ダブリンで運輸労働者の大ストライキが起こる。
1913年11月25日 ダブリンでアイルランド義勇軍が結成される。

 

 

イーモン・デヴァレラ

1914年、第一次世界大戦が始まった。第3の地方自治は戦後まで延期されることになった。1916年、IVFからのグループと、アイルランド共和主義者同胞団(Irish Republican Brotherhood)は、アイルランドでイギリスに対する反乱を計画した。これはパドリック・ピアス(Padraig Pearse)によって導かれた。イースターの翌日、反乱者はダブリンでカギとなる建物を乗っ取った。イギリス人と反乱者とのあいだの戦いが荒れ狂った。5日後、戦いは終わり、反乱者は降伏した。多くのアイルランド人は反乱を支持しなかったが、裁判後に100人以上の反乱者が処刑されたときにショックを受けた。イーモン・デヴァレラ(Eamonn de Valera, 1882-1975)は1917年にシン・フェイン党首になった。彼はイースター蜂起に参加していたが、処刑されていなかったのだ。

1914年05月25日 イギリス下院が、アイルランド議会を設置するという第3次アイルランド自治法案を可決する。
1914年05月26日 イギリス下院でアイルランド自治法修正案が可決される。
1914年06月23日 アイルランド自治法修正案が上院で可決される。
1914年07月26日 ダブリンで反英暴動が起こる。
1915年04月04日 ダブリンでシン・フェイン党が独立共和国建設を要求。
1916年04月24日 イースター蜂起。アイルランド民族主義者がダブリンの要地を制圧する。
1916年05月01日 シン・フェイン党などがアイルランド共和国を宣言する。数万のイギリス軍と戦闘後、鎮圧される。
1917年06月10日 ダブリンでシン・フェイン党が蜂起。

 

 

翌年、シン・フェイン党はロンドン議会で73議席を獲得した。地方自治党は6議席だけしか獲得しなかった。シン・フェイン党下院議員はウェストミンスター(英国議会)で議席を占めることを拒否し、ダブリンに独自の議会ドール・エアラーン(Dail Eireann)をダブリンで開いた。1919年、IVFは全アイルランド独立を余儀なくさせるという見地からアイルランド共和国軍(IRA)と命名し直された。間もなく独立戦争が始まった。英国はIRAと戦うために、元第一次大戦兵のグループを派遣した。しかし、彼ら「ブラック・アンド・タンズ(Black and Tans)」は、自分たちへの攻撃の報復として、罪のない文民を射殺し始めた。このために、IRA支持が強まった。

1919年01月21日 ダブリンに国民議会が創立され、アイルランド自由国の独立が宣言される。
1919年11月26日 イギリス軍がシン・フェイン党の弾圧を開始し、武力衝突が起こる。

 

 

マイケル・コリンズ

1920年、英国政府はアイルランド統治法を通過させた。アイルランドは今や二つの議会を持つことになった。一つはナショナリストのため、もう一つはユニオニストのためであった。北アイルランドの北部6州はユニオニスト議会(ストーモント=Stormontにある)管理下にあった。北アイルランド首相は、アルスター統一党首(Ulster Unionist Party)、サー・ジェームズ・クレイグ(Sir James Craig(Craigavon), 1871-1940)がなった。シン・フェイン党は押しつけのナショナリスト議会を承認拒否し、ドール・エアラーンを開き続けた。マイケル・コリンズ(Michael Collins, 1890-1922)によって導かれたIRAはさらなる独立のために戦い続けた。

1920年07月21日 シン・フェイン党がベルファストで蜂起する。
1920年11月21日 イギリス軍がIRAへの報復のためダブリンのフットボール会場で無差別発砲を行い、72人が死傷する。
1920年12月12日 コークで焼き打ちがあり、戒厳令が発令される。

 

 

1921年、IRAとイギリスは停戦に署名した。コリンズは英国政府と交渉し、アイルランド自由国(Irish Free State)を作ってナショナリスト議会に代えるという英愛条約(Anglo-Irish Treaty)に署名した。イーモン・デヴァレラはアイルランド自由国の初代首相となった。英連合王国は「グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国」と命名し直された。しかし、32州独立アイルランドを求めたアイルランド・ナショナリストと、条約を支援した人たちの間に分裂が広がった。シン・フェイン党は条約についてドールで投票した。条約賛成64票、反対57票。イーモン・デヴァレラと支持者は抗議してドールから立ち去った。

1921年05月13日 アイルランドで選挙が行われ、南部でシン・フェイン党が完勝する。
1921年07月11日 イギリスとアイルランドが休戦に向かう。
1921年12月06日 イギリス・アイルランド条約が結ばれ、アイルランド自治が北部を除き承認される。
1922年01月07日 アイルランド国民議会が条約を僅差で批准し、アイルランド自由国が成立する。
1922年03月15日 デヴァレラが新共和党を組織する。

 

 

1922年、アイルランド内戦が2つのグループの間に発生した。アイルランド軍の長マイケル・コリンズは、戦争中にIRAによって殺された。IRAは条約に反対して戦っていたが、1923年に軍事行動を停止した。その間、北アイルランドでは派閥主義的暴力が急増した。ティローン州とファーマナ州の州議会は、ダブリン議会に責任があると宣言したために解散させられた。北アイルランド政府は戦略上、選挙区境界線を引き直すことによって、州議会のユニオニスト支配を増やした。金持ちほど、土地所有の多さに応じて多くの票を与えられた。

1922年08月22日 アイルランド自由国臨時政府首班マイケル・コリンズがダブリンで暗殺される。
1922年12月06日 アイルランド自由国発足。
1925年12月03日 イギリスとアイルランドが国境協定に調印する。
1925年12月10日 アイルランド出身のバーナード・ショウがノーベル文学賞を受賞する。
1926年03月11日 デヴァレラがシン・フェイン党党首を辞任する。

 

 

1927年、イーモン・デヴァレラによって形成された新党フィアンナ・ファーイル(Fianna Fail)がアイルランド自由国選挙に出馬した。この党は英国からの完全独立を求めた。5年後、フィアンナ・ファーイルは政権を握り、デヴァレラは英国支配を縮小し始めた。1937年、デヴァレラは新憲法を提起した。アイルランド自由国はエール(Eire)に改名された。選出された大統領は、国王ではなく、国家のリーダーであった。また、エールの国境はアイルランド島全体から成り立っていた。憲法は、かろうじて国民に認められた。1949年のイースターの翌日、アイルランドのティーシャハ(Taoiseach=首相)ジョン・コステロ(John Costello, 1891-1976)はエールを英連邦から離脱させ、完全独立共和国を宣言した。エールはアイルランド共和国(Republic of Ireland)と改名された。

1932年03月09日 アイルランド総選挙で共和派が勝利し、自由国行政府主席にデヴァレラが就任する。
1933年09月03日 アイルランドで反共和派がアイルランド統一党を結成し、武力闘争を開始する。
1936年02月17日 イギリス・アイルランド通商協定が調印される。
1936年12月12日 アイルランドが、イギリス王室の危機を利用してイギリス国王の君主権承認放棄を通告する。
1937年06月14日 アイルランド議会が新憲法を採択し、イギリス総督制を廃止する。
1937年12月29日 アイルランド自由国で新憲法が施行され、エール共和国と改称。
1938年04月25日 イギリス・エール協定が調印され、イギリスがアイルランド独立を承認する。
1938年05月04日 アイルランド自由国で最初の総選挙が行われる。プロテスタントのダグラス・ハイドが大統領に就任する。
1939年01月28日 作家イェーツ没。73歳。
1940年08月10日 Uボートがアイルランド沖でイギリスの仮想巡洋艦トランシルヴァニアを撃沈する。
1942年09月11日 アイルランドで、アメリカ進駐軍撤退を要求して暴動が起こる。
1944年03月11日 米英による枢軸国との外交関係断絶要求をアイルランドが拒否。
1944年05月21日 メアリー・ロビンソン(Robinson,Mary)がバニラで生誕。
1949年04月18日 エール共和国がイギリス連邦から正式に独立。

 

 

1963年、アルスターのユニオニスト、テレンス・オニール(Terence O'Neil, 1914-)が北アイルランド首相となった。彼は北アイルランドの2つの共同体の隔たりをつなぐごうと望んだ。オニールは、アイルランド共和国との関係を改善した。しかし、多くのユニオニストはこれを好まなかった。イアン・ペイズリー(Ian Paisley, 1926-)はプロテスタント・ユニオニスト党を設立し、オニールに強く反対し始めた。1960年代後期、多くの市民権行進が起きた。抗議者は主に、選挙区改変と宗教的差別の終了を欲したナショナリスト・カトリック教徒であった。これらの行進の多くは、政府支持者と勤務時間外の警官によって攻撃された。

1951年06月13日 アイルランドでデヴァレラが首相に復帰。
1953年02月13日 スウェーデン、デンマーク、アイルランド、ノルウェー間の地域協定のための北欧第1回総会が開催される。
1959年06月17日 デヴァレラがアイルランド大統領。
1962年01月18日 EEC加盟を申請。
1965年01月14日 アイルランド共和国と北アイルランドが、南北分割後初の首脳会談。
1966年11月10日 共和党のリンチが首相に就任。
1967年05月12日 EEC加盟を申請。

 

 

1969年は北アイルランド史上最悪の暴動が起こった。特に、市民権運動への激しい取り締まりに対するものであった。アイルランド首相ジャック・リンチ(Jack Lynch, 1917-)は、カトリック住民を保護するために北アイルランドを侵略すると脅した。英国政府は北アイルランドが崩壊しつつあることを悟り、英国軍にベルファストとデリーに入るよう命じた。1970年、暫定IRAがIRAから分裂し、イギリスに撤退を強いる北アイルランド爆破作戦を始めた。1971年、テロリストがそれ以上の殺人を実行するのを阻止しようとして、北アイルランドで「裁判なき抑留」が導入された。しかし、多くの無実の人々が拘留された。

1970年01月10日 アイルランド共和軍(IRA)が分裂。
1971年06月23日 イギリス、アイルランドなどのEC加盟が合意される。
1971年10月31日 アイルランド共和国軍の爆弾テロ。

 

 

1972年、巨大な反抑留大集会がデリーで行われた。行進には問題がなかったが、それが終わってから暴動が起こった。IRAによる武装攻撃を受けたと信じた軍は発砲した。14人が殺されたが、誰一人として武装していなかったことがわかった。この事件は「血の日曜日(Bloody Sunday)」と呼ばれる。関与した軍人はだれも告発されなかった。これはナショナリスト共同体を憤慨させ、IRAは軍事行動を増やした。内戦の危機に直面した北アイルランド首相ブライアン・フォークナー(Arthur Brian Deane Faulkner of Downpatrick, 1921-77)は、英国政府が北アイルランド警察RUC(王立アルスター警察隊)の武装許可を要求した。しかし、英国首相エドワード・ヒース(Edward Heath, 1916-)は、北アイルランド政府をしばらく停止し、北アイルランドをロンドン直接統治下に置いた。北アイルランド庁が支配のために設立された。


血の日曜日

1972年01月22日 ブリュッセルで、イギリス、アイルランド、デンマーク、ノルウェーが、欧州共同体(EC)の加盟条約に調印。
1972年02月02日 ダブリンで3万人の群衆がイギリス大使館を焼き討ち。
1972年03月22日 北アイルランド首相のブライアン・フォークナーとイギリス首相ヒースが内戦終結のための会談を行う。イギリスの直接統治で合意。

 

 

1973年、イギリスはユニオニストとナショナリストが権力を共有するような北アイルランド議会を設立した。選挙後、北アイルランド行政府(Executive of Northern Ireland)が設立された。行政府が北アイルランドで稼働する前に、アイルランド共和国が演ずるはずだった役割が定義されなければならなかった。北アイルランド、アイルランド共和国、ロンドンからの代表者が、これについて論じるため、イギリスのサニングデール(Sunningdale)で会見し、2国家間の関係を改善するために働くアイルランド評議会(Council of Ireland)が作られた。サニングデール協定は、行政府に北アイルランド支配を行なわせた。権力分担反対者たちは、共和国が北アイルランドで発言権を持つはずだったことから憤激し、協定廃止を望んだ。

1973年01月01日 イギリス、アイルランド、デンマークがECに加盟する(第1次拡大)。

 

 

1974年、ロイヤリスト準軍事組織グループと反サニングデール政治家がアルスター労働者評議会(Ulster Worker's Council)に加入した。評議会は、政府への反対行動を組織し始めた。彼らは議会に、もしサニングデール協定を廃止しなければ、ストライキを行なうと警告した。議会はUWCの要求を無視することを票決したので、ストライキが始まった。2週間後、ほとんどすべての北アイルランドの事業が閉じられた。食物が欠乏し、行政府は倒れ、北アイルランドはロンドンによって再び直接支配されることになった。1970年代の残りずっと、IRAテロ作戦と、それに対するロイヤリストの応酬が続いた。

 

 

ボビー・サンズ

1976年、テロリスト囚人が常習犯罪者として扱われることになった。これ以前には捕虜として扱われていた。1980年、多くの共和主義者の囚人が 捕虜としての地位を回復させるため、ハンガーストライキを行なった。有名なハンガーストライキ実行者がボビー・サンズ(Bobby Sands)であった。囚人であるにもかかわらず、1981年の英国総選挙に出馬して、彼は 見事に勝利を勝ち取った。ハンガーストライキ参加者は、ナショナリストのあいだに大きな支持を得ていた。しかし、英国首相マーガレット・サッチャー(Margaret Thatcher, 1925-)は譲歩せず、ボビー・サンズと9人が飢え死にした。IRAは再び暴力を増やした。シン・フェイン党は大衆に再び浸透し、1983年、ジェリー・アダムス(Gerry Adams)が議員に選ばれた。

 

 

1984年、IRAは、英国首相マーガレット・サッチャーを殺そうとして、滞在していたブライトン市のホテルを爆破した。サッチャーは逃げたが、他の5人が死んだ。英国は、和平を達成するまで北アイルランド問題が終わらないことを悟った。英国政府とアイルランド政府は、取り組むべき若干の共通基盤を見いだそうとして秘密交渉を始めた。1985年、両国政府は合意内容を公開した。これが英愛協定(Anglo-Irish Agreement)である。全アルスター・ユニオニスト国会議員が協定に反対したが、両国政府はこれを票決した。

ユニオニストは協定廃止キャンペーンを始めた。アルスター民主統一党(Democratic Unionist Party)のイアン・ペイズリーと、アルスター統一党(Ulster Unionist Party)とJames Molyneauxに率いられて、大衆デモが行なわれた。UUPとDUPは、全英国官僚をボイコットし始めた。デモにもかかわらず、彼らのキャンペーンは1988年までにいかなる進展も得られなかった。この時期の間ずっと、暴力が継続した。

1985年11月15日 イギリスとアイルランドの両首相が、北アイルランドの紛争解決への合意書に調印する。

 

 

ジェリー・アダムス

1990年代のはじめから、北アイルランド全党協議状態を作り上げようという試みがあった。英国政府は、もしIRAが軍事行動を停止したならばシン・フェイン党と対話する、と述べた。穏健なナショナリスト党SDLP(社会民主主義労働者党)党首ジョン・ヒューム(John Hume)は、シン・フェイン党党首ジェリー・アダムスとの交渉を開始した。その目的は、対話プロセスにシン・フェイン党が参加できるよう、IRA停戦を実現することであった。ロイヤリスト・テロリストも、革新統一党(Progressive Unionist Party)のような新党を通じて発言した。

1990年11月09日 任期満了に伴うアイルランド大統領選挙が行なわれ、史上初の女性大統領として、野党労働党から立候補したメアリー・ロビンソン(47)が選出される。

 

 

1993年、英国政府とアイルランド政府はロンドンで会見し、未来の交渉のための原則を提出し始めた。これは、両国が新しい政治機構を開発することにたずさわり、暴力を放棄したいかなる党も協議に加わることを許す、というダウニング街宣言(Downing Street Declaration)になった。1994年までに、IRAは軍事作戦の完全中止を宣言した。ロイヤリスト・テロリストグループは、間もなく、解散を宣言した。

1995年、和平会談が始まったが、シン・フェイン党もロイヤリスト・グループも参加を認められなかった。英国首相ジョン・メージャー(John Major. 1943-)は、対話に参加する前にテロリストは武装放棄しなければならない、と述べた。IRAは、和平プロセスが完成されるまで放棄を開始できない、と激怒した。1996年、IRAは停戦終了を発表し、カナリーウォーフ(Canary Wharf)で大規模爆弾を爆破し、2人が死亡した。

1995年02月22日 イギリスのメージャー首相とアイルランドのブルートン首相が、英領北アイルランドの将来の統治方式などを両政府が共同で提案する「枠組み文書」を発表する。
1995年06月25日 アーネスト・ウォルトン(Walton,Ernest Thomas Sinton)がイギリスのベルファストの病院で没。91歳(誕生:1903月10月06)。アイルランドの物理学者で、荷電粒子の高速加速装置を発明してアルファ線を確認してノーベル物理学賞を受賞した。
1995年11月24日 夫婦の離婚の禁止を定めた憲法の条項を撤廃するかどうかを問う国民投票が行われる。
1995年11月25日 離婚の是非を問う憲法改正の国民投票の開票結果が、50.3%対49.7%の僅差で「離婚合法化」が上回る。
1996年02月28日 イギリスのメージャー首相とアイルランドのブルートン首相が北アイルランド問題をめぐってロンドンで会談し、「円卓会議」を6月10日に始めることで合意。
1996年03月07日 IRAがイギリス・アイルランド両政府の求める停戦の再宣言を事実上拒絶する声明を出す。

 

 

1996年夏まで、北アイルランドにおける市民の不安は高かった。ポータダウン(Portadown)でのドラムクリー(Drumcree)オレンジパレード(オレンジ結社によるプロテスタントのパレード)は、ナショナリスト地区のGarvaghy通りを行進することを警察によって阻止された。ロイヤリスト暴動が北アイルランド全域で起こった。警察は同情的になり、行進を先に進ませた。これは、数日間、共和主義者の暴動を起こすことになった。ロイヤリストの停戦も終わってしまったのだ。


オレンジパレード

 

 

1997年、新しい英国首相トニー・ブレア(Tony Blair)は、全党協議を再会すると発表した。IRAは新たに停戦を宣言した。同年9月、北アイルランドの政党は和平会談のために同席した。1998年4月10日、対話議長ジョージ・ミッチェル(George Mitchell)は、各党が協定に達した、と宣言した。国民投票が北アイルランドとアイルランド共和国の双方で行なわれ、協定は認められた。北アイルランド議会選挙は6月に行なわれた。

1997年05月08日 イギリスのブレア首相が、アイルランドのブルートン首相と会談する。
1997年06月08日 アイルランド総選挙で連立与党が敗北し、中道右派が2年ぶりに政権を奪還することが確実になる。
1997年09月12日 メアリー・ロビンソン大統領(52)が、任期切れまで3ヵ月を残して辞任。
1998年04月08日 イギリスのブレア首相とアイルランドのアハーン首相が、ベルファストで北アイルランド和平交渉に関する首脳会談を行う。
1998年08月16日 イギリスのブレア首相とアイルランドのアハーン首相がベルファストで会談し、オマの爆破テロに関して合同で捜査体制を築くことで合意する。
1998年08月19日 IRAから分離した「真のIRA(Real IRA)」が、午前0時をもって軍事活動を停止するとのメッセージを新聞社に送る。
1998年08月19日 アイルランド政府が緊急閣議を開き、「テロ行為」の解釈拡大などを盛り込んだ反テロ法の改正案を議会に提出することを決める。

 

 

しかし、ユニオニストは、IRAが武装解除するまでシン・フェイン党と一緒の内閣に加入することを拒否した。IRAは、議会行政が始まったらすぐに解除し始める、と述べた。行き詰まりは、アルスター統一党が議会に加入することを票決したときになくなった。主要政党それぞれが新議会の大臣となり、アルスター統一党のデイビッド・トリンブル(David Trimble)が首相となった。1999年12月2日、ロンドンからの直接統治は、内政権付与命令が可決したときに終わった。

だが、2000年に入って、IRA武装解除が進まないことから、北アイルランド自治政府はまたもや空中分解している。

 

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