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シン・フェイン党の昨日と今日

 


以下は、最初、1971年にシン・フェイン党からパンフレットとして発行された。再発行は Republican Bulletin(共和主義雑誌) 1986年11月・12月号。

 

 

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現在のアイルランドで最も古い政治組織は、1905年に創設されたシン・フェイン党である。その名前は「わたしたち自身」を意味し、自由・独立・自立したアイルランドを建設する闘争における自己信頼の基本的哲学を伝えるものである。当初から、この組織はアイルランド語運動と、国内産業の育成を支持してきた。

1916年蜂起に続いて、巨大な愛国感情の波がアイルランドに押し寄せた。シン・フェイン党は大規模に組織され、多くの議会選挙で首尾よく闘った。1800年の合同法以来、アイルランドの議員たちはウェストミンスター(イギリス国会)に議席を有していたが、それは選挙で任されて5人から一人に減った。議会支配のための彼らの煽動は失敗し、国民は何か新しいものを求めた。

シン・フェイン党の政策は革命的であった。彼らの候補者は、外国の侵略者議会であるウェストミンスター議会に入らないことを誓っていたが、祖国にとどまって、アイルランド議会を創設するために働くという意図を発表していたからである。1918年の普通選挙で、シン・フェイン党は105議席中73議席を獲得した。そのとき、多くの当選候補がアイルランドか英国の刑務所にいたが、彼らは1919年1月21日のダブリン・マンション議会で釈放されて会うことになった。

この歴史的な会議に置いて、1916年に出された共和国宣言が採択された。独立宣言は世界中の国家に配られた。社会的・経済的発展のための民主的計画が採択された。そして、ドーイル・エーランと呼ばれる独立アイルランド議会が創設された。国務大臣が任命され、裁判所が置かれ、国債が流通し、アイルランド共和国軍は国防省の配下に入った。地方政府選挙でもほとんどの州で勝利を収め、地方当局に管理されるシン・フェイン党は、ドーイルに忠誠を誓った。

これらすべては、英国政府とその軍隊との衝突を避けがたいものであった。レジスタンスのゲリラ戦が1921年7月まで続けられ、停戦が協議された。協議の延期は起こったが、アイルランド統治法はすでにウェストミンスターを通過しており、アイルランドに二つの下位議会を設立することになった。この言い訳としては、連合王国内にとどまりたいというユニオニストのかなりの団体の意見がベルファスト付近にあったということである。しかし、この法は、新しい国家状態にアルスター9州のうちの6州を含むことになっていたが、ティローン州とファーマナー州はナショナリストが多数派であり、他の4州の広い地域でもそうであった。その目的は、できるだけ広い地域を安全なナショナリスト多数派のために占めることだったのである。ストーモント議会はベルファストで開かれたが、ダブリンの26州議会を設立する試みは失敗した。

1921年12月、シン・フェイン党は、ロイド・ジョージから「直ちに激しい戦争」の脅しを受けて、ロンドンで協定文書に署名した。彼らの行動は、なおも恐喝され、国家が二つに分れてしまったアン・ドーイルによって承認された。アイルランド法による政府の二つの議会は現実のものとなり、ダブリンのものは条約容認派によって操られた。これは、1923年4月まで、デ・ヴァレラ氏のもとの共和主義者によって抵抗されたが、失敗に終わった。シン・フェイン党は届いていたが、その支持の半分は、現在クマン・ナ・ゲーヘールと呼ばれるものと後のフィネ・ゲールに流れた。彼らは、条約を「共和国への飛び石」であると見なしたのである。1926年、デ・ヴァレラ氏はシン・フェイン党に26州議会を受け入れさせようとしたが、失敗した。彼はそれから多くの支持者とともに、フィアンナ・フォーイルと呼ばれる別の26州政党を創設した。シン・フェイン党はこのときまでに大変小さく、弱まっていたが、条約を受け入れることはなく、共和国の復活のために働くことを決定していた。

それからいくつかの変化が起こったが、「踏み石」は使われなかった。6州はこれまでイギリスに手一着指摘退場に堅固なものとなった。表面上の独立にもかかわらず、経済はいまだに英国によって管理され、不幸を引き起こしている。ゲールタハトすなわちアイルランド語使用地域はほとんど消えようとしている。実際の所、多くの人々に対して政府の分断体制が(アイルランドにとって)失敗であったこと、また英国と統合するという避けがたい流れはうまくいきそうもないことが、いよいよ明らかになっている。1965年、自由防疫地域協定はこのよい例である。

今日のシン・フェイン党は、1905年に設立され、1918年に設定したのと同じ目的を持っている同じ組織である。その最も最近の成功は、1955〜58年、占領された北部で2人、南部で4人の候補者が、全アイルランド共和主義ドーイルを復活することを制約して選出されたことである。これは、6州のアイルランド共和軍によって実行された抵抗運動にともなう熱狂の波の結果であった。この作戦が終わったとき、誤った宣伝と26州政権の一部の協力によって、シン・フェイン党への支援が衰えた。

政治分野におけるシン・フェイン党プログラムは、国境の南北における地方・国会選挙で闘い、アイルランド全域に立法権を及ぼす32州ドーイルを再建設することを目指している。社会的・経済的政策は根本的なものであり、通過・銀行・基幹産業の国営化、大規模な天然資源の国家的開発、農業・工業・貿易にわたる協同組合を広めることを目指している。海外投資は縮小され、資本の流入と国からの流出は管理されるようになる。社会サービスと教育の機会は、26州の標準とくらべて大規模に改善されることになるだろう。

1955〜58年の短期的な勝利とその後の支援低下に続いて、シン・フェイン党は今、大きな打開をしようとしている。これをもたらしうる要因は次のとおり。

どこにもうち立てられておらず、26州政党がほかの方向を向いて漂っている1916年の目的の実現。アイルランドの政策における第3の勢力の必要性。新しい社会的・経済的プログラム。自由経済地域協定の不幸な効果(工場閉鎖)によって引き起こされた警報、英国について一般市場に参入したことによる残酷な結果。1968年に広がり始めた市民権運動以来、6州で培われてきた再起の精神。



ウェストミンスター(英国会)、ストーモント(北部議会)、レンスター議会(アイルランド共和国議会)に対するシン・フェイン党の態度についての注。

共和主義者の立場の基礎は、常に、いかなる外国人・外国政府もアイルランドのために立法する権利を認めないというものであった。二つの従属議会による分断体制は、1920年にウェストミンスターを通過したアイルランド統治法のもとで存在している。わたしたちは、合計3つの議会を否定する。わたしたちの目的は、第1回ドーイルと第2回ドーイルを受け継ぐ全アイルランド議会を復活させることである。

この目的は、3つの英国に作られた議会を認めていては達成できない。その議席を占めることは、それを認めることになってしまう。ウェストミンスターとストーモントの議員もまた、英国王権への忠誠を誓わなければならない。シン・フェイン党は32州議会を召集するために働くことを自ら誓っているものである。シン・フェイン党候補者はウェストミンスターやストーモントには加わらない。彼らはレンスター議会に少数党としては議席を占めないが、多数党としてならありえる。彼らは26州を超えた政治体制を準備し、それを想定しているものであるから、最初に行なうことは、新しい32州議会における議席を占めるために、6州地域で選出された議員を誘うことだ。

1922年からさまざまな団体が、レンスター議会を32州共和国への「踏み石」として使おうとして、すべて失敗してきた。これらの団体はすべて「内側から働く」ためと「体制を変える」ために作られたものだ。どの場合でも、彼らは体制によって飲み込まれ、その一部となり、それを防衛するものになり果てた。

フィアンナ・フォーイルは1932年に権力を握り、共和主義者囚人を釈放させ、制約を廃止し、国土出資金問題について英国に反対し、26州内でいまだに英国に握られていた港の変換を協議した。しかし、1938年までに彼らは屈服してしまった。この年、貿易協定が締結され、英国によるわが国の経済への支配が永続することになった。そして1939年には、対国家攻撃法が通過して体制を強化した。それに続く7年間、共和主義者は投獄され、射殺され、絞首刑にされ、ハンガー・ストライキで亡くなった。それはフィアンナ・フォーイルが体制の一部となり、彼らの既得権を逃さないようにしようとしたためである。

1948〜1951年のジョン・A・コステロの連立政府は、レンスター議会を通じて分断を終わらせるために1946年に作られたクラン・ナ・ポブラハタ(Clann na Poblachta)が10議席獲得という勝利を得た結果生まれたものである。彼らのリーダー、ショーン・マクブライド(Sean MacBride)によって大いなる約束がなされた。政府は反分断キャンペーンを国内外で展開し、多くの人々はそれが成功すると考えた。

彼らは1949年に26州を一つの「共和国」であると宣言したが、ウェストミンスターは1920年の法律を強化した1949年のアイルランド法で報復してきた。ダブリンのオコンネル通りでの全政党結集のときに、コステロ氏は「わたしたちは英国のプライド・名声・所持金を打ちのめすであろう」と宣言した。

第2次連立が1954〜57年にあったが、反分断キャンペーンは失敗に終わった。レンスター議会におけるストーモント「傍聴権」を持つナショナリスト議員を認めよという要求は拒絶された。コステロ氏は、この態度が「法的・憲法的困難を高めるだろう」とさえ述べた。これはレンスター議会に議席を求めようという解釈に基づいてアルマーとティローンで議員が選出されたという事実を無視するものである。

「法的・憲法的困難」とは、もちろん、26州議会を建てた英国法によって、26州議会が国会として機能する(あるいは機能させようとする実際的な努力すらも)防止されていることを意味している。その法とは、1920年のアイルランド統治法、1921年の条約、1925年の境界協定である。英国会の立法権のすべてが全体または一部改正した形で1937年憲法に組み入れられた。1956〜57年、連立政府はまたもや体制を守るために共和主義者に対する対国家攻撃法を使った。

1969年には、アイルランド労働党がかなり長期的にTDの一方を占め、新しい「社会主義者」つまりコノール・クルース・オブライエン、デヴィッド・ソーンリー、ジャスティン・キーティングなどの銘柄を作り上げようとした。彼らは労働者の力を強めて独立させ、70年代社会主義者によって作られた社会体制を帰るよう要求した。一年経たないうちに彼らは体制の一部となり、保守的なフィネ・ゲールとの連立を模索していた。彼らはまた屈服したのである。

分断体制の外側にとどまることによってのみ、シン・フェイン党はアイルランド国民を率いることができ、体制を変えることができる。1970年代の現在、人々を体制から引き離し、32州議会という選択肢をうち立てる機会は多い。すでにストーモント廃止の対話がある。レンスター議会も同様の道をたどるだろう。しかし、全アイルランドに民主社会主義共和国を建設するには、多くの仕事がある。

1971年8月には、シン・フェイン党は、アルスター9州のための地方議会ドーイル・ウラー(Dail Uladh)を設定する発議権を行使した。これは32州のための新しい政治体制に向けての第一のステップである。

1971年

 

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