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東京クーデター
Tokyo Coup d'etat

 
第四章 クーデターの戦略・戦術
 

四 クーデターと戦略、戦術(一)

 戦いは、常に相手に勝つことを要求される。負けるとわかっていたら、最初から戦うべきではない。結局そのほうが得なのだ。

 山本五十六元帥(連合艦隊司令長官)は、緒戦一ヵ月は自信があるがその後はわからない、といったと伝えられている。しかしこれは、おそらく、元帥に箔をつけるためにあとでつけ加えた作為ではないかと思われる。

 勝つか負けるかわからないという不確定な状況のもとで、責任ある立場の者が、一国の運命を賭した大戦に路み切るべきではない。もし元帥が事実そうしたことを漏らしたとすれば、その一言は、元帥の全人格をも否定する結果ともなりえない。大勢に抗し難く、不本意ながら参戦したという含みを示唆するための、崇拝者の造言であることを、元帥のために望みたい。不確定の想定の参戦は、一身をなげうって諌止すべきが、真の武人であろう。

 戦争には勝たなければならない。だが、勝つといっても、即決の場合もあろうし、持久戦、長期戦ということもあろう。いずれのばあいでも、戦術、戦略なくして始まらないし、これなくして勝負することはできない。戦術、戦略を最も緻密に正確にたてたほうに、勝利の女神はほほえむのである。戦争にかぎらず、クーデターのばあいも同様である。

 戦術、戦略は、まずおのれを知り敵を知ることに始まる。また、その戦術は、目的によっても相違してくる。

 クーデターのばあいは、政権奪取が目的であるから、当然その戦う範囲も限定されてくる。これに対して革命は、その目的を祖会変革においており、権力奪取は、礼会変革のための方法にすぎない。いきおい、その戦いの様相も、戦術、戦略も、クーデターの場合とは、基本的に相違してくる。

 兵器、人員とともに、戦術、戦略は戦うための重要な条件であり、同時に他の条件以上に決定的な役割を果たすことが多いことを忘れてはならない。上杉謙信、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康など、軍略に長けた者が、兵器や人員の劣勢を補って勝利をおさめている。

 これは日本ばかりではない、外国においても、同じことがいえる。成吉思汗(ジンギス・カン)、フリードリヒ大王、ナポレオンなどはあまりにも有名である。

 戦衝、戦略の天才ナポレオンは、当時の用兵上における横隊戦術を、合理的な縦隊戦術に変更して、欧州諸国を相手に域い、各国軍を撃破、席巻した。しかしナポレオンの用兵上の秘密が、しだいに各国に研究されるにしたがって、ナポレオンは初期ほどの戦果をおさめることができなくなった。そして、戦術上で、逆に劣り、ついにその王座を失う結果を招いたロシア遠征(一八一二年)では、ロシア軍によるかの有名なモスクワの灰燼戦術にあって、遠征軍五十万人のうち生還者わずかに二万人という、惨憺たる敗北を嗅したのである。もちろん、冬将軍といわれる厳冬がロシアに味方したことは否めない。だが、その厳冬を利用したのはロシアの将軍の戦術のたくみさである。戦術、戦略がいかに重要かは、肝に銘ずべきであろう。

 余談になるが、ナポレオンについては、英雄、天才などにつきものの伝説が多い。鎖国中の日本にさえ、彼の評伝が紹介されたほどである。その伝説のなかでもっとも知られているのは、おそらく、ナポレオンは一日、三、四時間しか眠らなかったという話であろう。しかし、彼の秘書ブーリエンヌによると、ナポレオンはたえず健康に気を使い、八時問は眠ったということである。常識から判断しても、戦争という異常環境、極限状態に立つことのしばしばであった彼が、もし三、四時間の睡眠しかとらないでいたとしたならば、神経の消耗に耐えられなかっただろう。

 戦略・戦術がいかに戦争を左右するかは、いま述べたように古今東西の例がよく示している。しかし、この戦略・戦術は、相手の力、動勢などを正確に把捉することなくしては成立しないことも、心に留めておかねばならない。

 戦いは、まず相手の力と戦術を正確につかむ必要が生じてくる。このことは、前述のとおりである。クーデターのばあい、この情報収集は、それほど困難な問題ではない。むしろ、クーデターの秘密保持のほうが、なにかと困難がともなうのではあるまいか。もちろん秘密保持の困難は、準備進行の度合と相いまって、相互にふくれ上がっていくことは、事実であるが。

 情報収集は、たんなる憶測であってはならない。充分な料学的実証を基礎におかなければならないことはいうまでもない。体制側の秘密機関以外の組識については、その全貌が一般に解放されているだけにつかみやすい。調査を必要とするところも多いだろうが、いろいろの関係書類から、だいたいの相手のカの測定は可能である。また具体的調査をするにしろ、同国人であり、調査もしやすいはずである。

 

 今日、クーデターは、世界的に多発している。しかし、その多くは発展途上国においてである。

 日中国交回復によって、日本の台湾疎外がはっきりしてきたが、これにともなう台湾独立の問題が、あらためて陰湿な不気味な空気をはらみながらくすぶってきている。

 日本政府は四十七年二月二十四日の閣議で、同月十五日に軍部のクーデターでベラスコ大統領を追放したエクアドル軍事政権を承認している。

 昭和四十六年七月に起こったスーダンの左翼クーデターは失敗はしたが、この事件で、ニメイリ大統領はあやうく命を失うところであった。

 アミン・ウガンダ大統領も、クーデターによって政権を把握した一人である。

 こうみてくると、クーデターの発生地は、ほとんど発展途上国であるような観を呈しているが、かならずしもそうではない。

 ウォーターゲート事件で追いつめられたニクソン大統領がクーデターを企てているという物騒なニュースが流れている。

     クーデター予言も
        大統領の物騒なうわさ

 盗聴事件で米国民のニクソン大統領に対する疑惑は深まる一方。二日、スターク民主党下院議員(カリフォルニア州)の口から「大統領は苦境乗り切りにクーデターを起こす恐れもある」と物騒な予言が飛び出した。

 アラメダ海軍飛行基地での同議員の演説によると「大統領は正義の手が身辺に及ぶにつれ、しだいに絶望感にかられてくる。最近の大統領の不合理な行動と、米国の貴族化した軍部エリートが結びついた場合、クーデター発生も考えられないことではない」という。

 同議員は「特別検察官が大統領の悪事を暴く寸前が危ない」と“クーデター”の時期まで予告したもの(AP)

                  読売新聞四十八年十一月四日(朝刊)

 

 中華人民共和国における、林彪クーデター事件もある。

 林彪のクーデターは失敗に終わったが、考えてみると、毛沢東の文化大革命、スターリンの有名な粛正劇も、いいかえれば体制側のクーデターといえないことはないのではあるまいか。

 なぜならば、それは大衆討議によって、変革されたものでないからである。劉少奇追い落としについては、中国共産党総会において、討議されたものでなく、毛、林、周の共同作戦(軍、とくに林彪の第四野戦軍団の支持)によってなされたからである。

 このことは、スターリンの粛正においても、同じことがいえる。大衆討議以外の権力によって決定され、力によって実行されたものは、基本的にいえばクーデターであるといえないこともない。

 このことは、なにも共産国についてだけいえるのではない。わが国においても、戦前の天皇が発令した「勅令」制度は、ある意味でのクーデターといえよう。「勅令」は議会の討議を経ずに出され、しかもそれは議会の決議に優先する法的効力をもっており、国民を束縛したものである。これと同しく、ヒットラーやムッソリーニなど体制側の非民主的行動を、世間ではファッショと別称しているにすぎない。

 それらは、合理的仮面をかぶった、実質的にはクーデターと同じ暴力による否定にほかならない。

 いささか余談になったが、今回の林彪のクーデターは、それが失敗には給わったものの、先進国ではクーデターは困難であり、あるいは不可能であるという予想を打ち破ることに大きな説得力を与えた。

 クーデターは、中国より日本のほうに可能性が多いかもしれない。それは、中国においては階級性は消滅しているが、日本の社会は、いくつかの階級に分裂しているからである。

 そうはいっても、これまでわが国でクーデターを起こそうとした人々、たとえば五・一五事件、二・二六事件、三島事件などの主役たちは、クーデターとはなにかを知らなかった。それほど、わが国でおこなわれたクーデターは、素朴そのもの、幼稚そのものであった。

 最近でこそ、新左翼運動の激化にともない、ゲリラ関係の書籍の出版とともに、クーデター関係の書籍も出版されるようになってきたが、昭和四十三、四年まではクーデター関係の出版物はまったくなかった。

 戦前はまったく論外で、かりにこうした出版が行われると治安維持法に触れ、著者・発行者は三年以上の実刑を覚悟しなくてはならなかった。

 かつてのクーデターの実行者が、クーデターの性格や本質、方法を知らなかったと断定するのは、彼らがいちように、権力の中心を見きわめ、それを自分の手に奪取しようとしなかったからである。

 護国団事件は、一人一殺主義のテロ事件にすぎなかったし、五・一五事件も、結果的には護国団事件の延長のようなぐあいであった。

 二・二六事件になって、ようやくクーデターらしい様相を呈してきたが、これとても、軍部内の皇道派と統制派との闘争という、いわばコップの中の嵐であった。当時の権力の中心はなんといっても、天皇であり、この天皇を擁して目的を処理するということを、これら青年将校はまったく知らなかった。彼らはもともと熱狂的な天皇主義者であったため、勅令で投降し、非公開、一審制、上告なしの特別軍法会議の結果、香田清貞以下十五名は七月十二日、村中、磯部、北一輝、西田税は翌年八月十九日、それぞれ処刑された。この粛軍によって皇道派は一掃され、統制派が陸軍の主導権をにぎった。

 また現在審理中の三島事件においては、まったくクーデターのなんたるかを知らないように見受けられる。二・二六事件と同じく、権力に対する認識がまったくないばかりか、準備もまったく不十分で、まったくマンガ的ですらあった。おそらく三島としては、クーデターを実行するということよりも、自己顕現欲に陶酔していたのではあるまいか。

 

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