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シン・フェイン党1905-1956管理執行部 誇りある歴史は
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以下の文書は1956年、シン・フェイン党が発行した。
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1. はじまり50年前、1905年11月28日、エドワード・マーティン(Edward Martyn)議長のもと、ダブリンのロトゥンダで開かれた国民協議会の会議で、シン・フェイン党組織が公式に設立された。英国帝国主義思想に基づいたいわゆる「国家」教育システムによって、かくも長きにわたって援助・賛助されてきた英国政権の影響のため、別個の国家という考え方が事実上消滅してしまっていた。自分の新聞「ユナイテッド・アイリッシュメン」(IRBから一部投資を受けていた)のコラムの行を埋めてきたアーサー・グリフィス(Arthur Griffith)は、この新しい政党の主要人物であった。彼は周囲にナショナリスト思想を持つ男女の小集団を集めた。それは主にケルト文学協会、インヒニヘ・ナ・ヘーラン(Inghinidhe na hEireann)、ゲール語連盟から募集された人たちで、全員が当時限定された分野で活動していたが、全員が国家の士気を復元し、高めることを決意していた。「シン・フェイン(われら自身)」のモットーのもと、組織は、アイルランドをブリティッシュ諸島の1島から32州共和国に転換するという運動に明確に乗り出すことになった。 「シン・フェイン」という名称は、1902〜3年、モイラ・ニー・ウィトラー(オヌアリーン夫人 Maire Ni Bhuitleir, Mrs O Nuallaion)がミース州オールドキャッスルで発行した小さな宣伝紙に由来する。彼女はアーサー・グリフィスにその名前を国家復興運動のために提案し――彼女は言葉にうるさかった――グリフィスはそれを受け入れた。 「シン・フェイン党」の政策は綱領ラインに盛られている。それはドイツの経済学者フリードリッヒ・リストの経済原則に従い、アイルランドの独立した農業と産業を作ることをめざしたものである。国家独立は、この言葉のあらゆる意味において、不変の考えである。 数か月のうちにベルファストは20以上の支部を持ち、ダブリンとコークでの運動はどんどん力をつけていった。グリフィス編集の週刊新聞「シン・フェイン」は宣伝を続けた。これは政治的・宗教的不寛容のすべての犠牲者の側に大胆に立っていた。少ない報酬と少ない資本で、シン・フェイン共同経営銀行が作られ、しばらく役に立った。 唯一の最高の勇気、そしてアイルランドの運命に対する暗黙の信頼が、これらの開拓者を刺激した――そのなかには老いたフェニアン協会員も数人いた――そして、1906年から1916年まで運営されていったのである。成し遂げられた事業は主に文化的なものであったが、地方自治体選挙で闘って少数の議席を獲得した。これらの選挙によってもたらされた土台は、シン・フェイン党の政策を促進するために活用された。また、アイルランド語の復元を求めていった。 これらの初期にさえ、組織の性質に変化が起こっていた。1910年、ショーン・マクダーモット(Sean Mac Dermott)が「アイルランドの自由(Irish Freedom)」という隔週新聞を出版した。これは明確に共和主義の声であり、スローガンはIRB(アイルランド共和主義者連盟,Irish Republican Brotherhood)の目標をすべて伝えていた。「英国への諸君の譲歩は呪われよ。われわれはわが国を望む」この出発は、シン・フェイン党とその仲間を単に研究家だと見なしていた人々にとっては衝撃的であった。 1914年の世界大戦は、シン・フェイン党の立場を極めてはっきりと示すことになり、徴兵の脅しは、社会のあらゆる信条と階級をもつ人々からの頑強な抵抗に会った。アイルランド労働運動は1日ストを行なった。これはアイルランドで起こった中でも最も派手で完全なデモンストレーションであり、反徴兵誓約がナショナリスト精神を持つ人々によって、国内の実質的にすべての教区で署名された。ダブリンのマンション・ハウスでの会合で、このように宣言された。 「英国下院による徴兵法の承認は、アイルランド国家への宣戦布告と見なされなければならない」 アイルランド司教からの檄文は、この法律は「抑圧的で非人間的な法律であり、アイルランド国民は、神の律法と一致するあらゆる方法で抵抗する権利を有する」と述べて、この見方を強調・支援するものだった。シン・フェイン党の蒔いた小さな種は、根を張ったのだ。 1916年の蜂起は、その組織の共和主義者としての展望についてのあらゆる疑念を払拭したが、当時は小さな影響しか及ぼせなかった。「シン・フェイン反乱」という解説と「シン・フェイナー」という名称が、暴動の中心であったアイルランド義勇軍とIRBに実際に与えられた。市民組織としてのシン・フェイン党は、軍事的機関をまったく持っていなかった。
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2. シン・フェイン党の勝利1917年の冬、飢饉の影がヨーロッパを覆い、シン・フェイン党は、アイルランド国民の損害となるような牛・オート麦・バターなどの輸出がされないことを確保するという手続きをとった。この行動はシン・フェイン党の人気を高め、国内での食料自給率を守ることに物質的に役立った。反乱によって追放されていた者は、1917年2月までに釈放され、その月にはロスコモンで補欠選挙があった。オックスフォードで拘留されていたカウント・プランケット(Count Plunkett)は立候補するように依頼された。彼は当選し、彼の選挙は1916年蜂起を国民が承認したものとされた。クロスナ出身のマイケル・オフラナガン副牧師(Micchael O'Flanagan)は、この運動中、勇敢に働いた。彼は数年後の死まで、忠実なシン・フェイナーとして働き続け、党首と副党首の双方をつとめた。 1917年4月、ロングフォード州での補欠選挙にジョー・マクギネス(Joe McGuinness)が当選した。7月には、エアモン・デ・ヴァレラ(Eamonn de Valera)がクレア州で議席を得た。8月には、W・T・コスグレーヴ(WT Cosgrave)がキルケニー州で当選した。アーサー・グリフィスはカヴァン州で議席を得た。炎は広がっていった。 シン・フェイン党の共和主義綱領が提出された最初の全国党大会はは、1917年10月25〜26日にダブリンで開催された。綱領は満場一致で採択され、以下の役員が選ばれた。
オースティン・スタックは、1929年に死ぬまで、シン・フェイン党の名誉幹事としてとどまった。 集中的組織運営は1917年冬に始まり、それは大きな成功を得た。英国会が1918年11月に解散したとき、シン・フェイン党は全議席に立候補し、議席を得た。例外はトリニティ大学、北部ドーン州、アルスター4選挙区で、これは協定によって議会党に議席が割り当てられていたのである。 投票日は12月14日で、ジョン・ディロン(John Dillon)は「アイルランド党は、あらゆる手段を使ってシン・フェイン党を始末するために戦う」と宣言したが、もちろん彼らは圧倒的であった。一方のシン・フェイン党は、妨害によって圧倒された。100人以上の指導者が獄中にあり、新聞は弾圧され、郵便局は文献を配らないなどがあった。これらすべてにもかかわらず、12月28日に結果が発表されたとき、105議席中、シン・フェイン党は73議席を得、ユニオニストは26、アイルランド党は6議席だった。ディロンはメイヨーでデ・ヴァレラに議席を奪われた。 シン・フェイン党が選挙民に配った檄文には曖昧さがまったくなかった。それは、シン・フェイン党が自主独立とアイルランド共和国の立場に立つことをはっきりと宣言していた。また、「アイルランドを軍事力その他によって従属させ続ける英国の力を無力化させるために、使用可能なありとあらゆる手段を使う」ことを自ら誓っていた。 1219年1月21日、最初のドーイル・エーランが開かれた。シン・フェイン党党首デ・ヴァレラ氏はリンカーン刑務所におり、カウント・プランケットは、カハル・ブルハ(Cathal Brugha)が司会をするよう提案し、オフラナガン神父は知恵と導きの聖霊に祈った。 当選した73人中36人が獄中にいた。ドーイルはさまざまな閣僚を設定し、国法を作り続けた。シン・フェイン党の書記オースティン・スタックは法務大臣として法廷を設置し、まもなく王の令状はアイルランドに届かなくなった。 これらの法廷は、最も予期されなかった被告人に活用され、その命令は文字通りに実行された。それから、ブラック・アンド・タンズがやってきた。テロにテロが続いた。刑務所は満たされた。国王軍による放火と略奪が頻繁に起こるようになった。しかし、それにもかかわらず、シン・フェイン法廷とIRAは国内外のアイルランド国民の援助と後援を行ない続けた。 1920年の休戦記念日、3度目の分断法が英国下院を通過した。12月、アーサー・グリフィスが逮捕され、デ・ヴァレラはアメリカから戻った。アイルランド共和国の代表として、彼は国々で勝利を収めてきたのである。
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3. 条約シン・フェイン党の1921年のアルド・エイスは党員の着実な増加を示しており、最新の提携クマン(Cumainn=団体)数は1500近くとなった。このアルド・エイスでは、ワイスパワー女史(Wyse-Power)とエアモン・ドゥガン(Eamonn Duggan)が会計係に選ばれ、大衆から提供された入会金と資金によって構成されているシン・フェイン党の資金の監督をすることになった。ドーイル・エーランへの忠誠の誓いの決意が採択された。1921年7月11日に停戦が行なわれた。1921年12月には、いわゆる条約が締結された。力は分割された。条約を拒絶して、デ・ヴァレラ氏は述べた。「わたしは確かに、1916年に建国されたものとして――そして1919年にアイルランド国民がそれに続いてつくったたものとして――アイルランド共和国を語っている。わたしは確かにそれを意味しているのであり、それと一貫していない政策は何であれ支持しないであろう。――わたしたちは、過去と同じように、シン・フェイン党綱領を堅持するであろう」 ドーイルの女性はすべて条約に反対したが、7票差で共和国は引き渡されてしまった。 シン・フェイン党特別アルド・エイスが、1922年2月21〜22日にダブリンのマンション・ハウスで開かれた。これは、次の目的のためだった。「条約のための協定条項にロンドンで署名され、ドーイル・エーランで反対57に対して賛成64の投票があったために作り出された状況を鑑み、シン・フェイン党の綱領を解釈するため、そして、来たるべき選挙で可能な観点からシン・フェイン党の政策を決定するために」 二日目には、デ・ヴァレラとグリフィスによって準備された草稿がアルド・エイスに提出され、反対者なしで採択された。協定文書は次の通りである。 「シン・フェイン党組織の分裂を避けるために。そして、ロンドン協定の署名人に憲法制定の機会を与えないため、共和国か自由国(スィールスタート)のどちらを選ぶかを決める選挙に投票するよう国民が言われたときに後者の憲法が彼らのまえにあるようにするため、 これらについて同意する。
(注――この協定は、3月2日にドーイル・エーランで批准された) 予選のあった1922年5月になってやっと、「協定」はデ・ヴァレラとコリンズによって立案された。この「協定」がコリンズによって破られたとき、デ・ヴァレラは――1922年2月に常任委員会の決議によってシン・フェイン党の資金に関する唯一の評議員として任命され――財産、預金領収書などのリスト担当の会計(両者とも条約を支持していた)に手紙を書いた。返事はなく、会計のワイスパワー女史とエアモン・ドゥガンによってハーコート通り6丁目の本部は閉められてしまい、資金を預けてしまった。――そのとき、シン・フェイン党役員会へのいかなる報告もなしに、あるいはアルド・ホワーレ(Ard-Chomhairle)のアルド・エイスからのいかなる承認もなしに、総額8610ポンド5シリング11ペニーを法廷に預けてしまったのである。オースティン・スタックと名誉幹事ハリー・ボーランド(Harry Boland)はこの行動に対して抗議する手紙を会計に書き、閉まっていたにもかかわらずハーコート通り6番地に宛てて手紙を書き続けた。 シン・フェイン党が比較的不活発であったことを考慮するときには、この関係に留意する必要がある。この時期、激しい対立と明白な戦争があった。7月30日、シン・フェイン党名誉幹事ハリー・ボーランドは、自由国軍によって撃たれて致命傷を負った。7月5日にはカハル・ブルハ(Cathal Brugha)がダブリンの戦いに倒れていた。8月22日にはマイケル・コリンズがコークでの戦いで死んだ。TDのシェームス・デヴィンス(Seamus Devins, TD)は西部での戦いで死んだ。ジョセフ・マクドナー(Joseph McDonagh)はマウントジョイ刑務所からマスター病院に移されるときに亡くなった。フェラン(Ferran)氏はクラー強制収容所で死んだ。さらに、シン・フェイン党から給与を受けていた書記パードリック・オキーフェ(Padraig O'Keeffe)はいまやマウントジョイ刑務所の支配者となっており、彼のシン・フェイン党への姿勢は強調しなくてよい。 この危機的な期間に資金を押さえられていたことから生まれた問題は小さくない。1923年6月には提携しているクマンの数は16に減り、再組織委員会がこの破壊に対処するために設立された。 この組織委員会は、サフォーク通り23番地のシン・フェイン党広報局から実施され、うまくいったので、シン・フェイン党が1923年の普通選挙で選挙戦を戦うことを決めることになり、棄権政策に基づく87人の候補者を立てた。檄文はこのように述べている。「この選挙のシン・フェイン党候補者は、1917年からのすべての選挙に立候補したのと同様に立候補する。アイルランドの統一と縛られない独立のために」 選ばれた87人のうち、64人は刑務所にいるか、またはデ・ヴァレラ本人のように「逃走中」であるために選挙民に演説することもできず、選挙対策者も逮捕されていた。その結果、44人のシン・フェイン党候補者が選出され、1922年6月の当選者より8名増えたが、自由国軍と警察は迫害を続けた。迫害されても集会は成功し続け、成功した集会は開かれ続け、1924年11月には補欠選挙で2議席獲得した。これは、ダブリンのショーン・レマス(Sean Lemass)と、メイヨー州のマデン博士(Madden)である。 10月16日のアルド・エイスで、630のクマンが発表された。1週間後、マウントジョイの424人の政治犯がハンガー・ストライキを実行。直ちにニューブリッジ、キルマンハム、その他の収容所や刑務所もそれに続いた。 シン・フェイン党の活動は、囚人とその支援者に集中した。1923年11月29日のマンション・ハウスにおけるアルド・ホワーレ集会で、提携クマンは729にふえた。うち、3つは英国にある。そして、ティローンとファーマナーを除くアイルランド全州から代表者が来た。 その結論の一つは、「もはや党員ではない人物によるシン・フェイン党の資金の差し押さえ」を扱った。 1924年2月、3度の補欠選挙があり、シン・フェイン党への投票は着実に増えていった。同月、シン・フェイン党は囚人が釈放されるまでTailteannゲームをボイコットすると決めた。Aonach Tailteannが1921年に合意されたことをもとにデ・ヴァレラは名誉党首に選出されていたが、1924年には彼と1200人の共和主義者は獄中にあり、ゲームは国家的感傷を代表することにはならず、訪問者に謝った印象を与えかねなかった。 1924年7月、ファーマナーはクマンをまだ持っていなかったのにティローン州には6つあり、同じ月に、拘留されていたデ・ヴァレラとオースティン・スタックが釈放され、大成功の集会が8月15日にエニスで開かれた。アルド・エイスは1924年11月4日に開かれた。1000以上のクマンがあった。シン・フェイン党を殺そうという試みはすべて失敗したのである。 講義が印刷されてクマンに配られ、元拘留者のための職業紹介所が置かれた。 1925年初期の補欠選挙で、二人のさらなるTeachtaiが選出された――ダブリンのオスカル・トレーナー(Oscar Traynor)と、スライゴー・リートリムのサム・ホルト(Sam Holt)である――それは共和主義精神の着実な復活を示していた。このころ、毎年復活祭の日曜日には、1916年以後、アイルランドの自由のために命を投げ出した人々すべてを公式に記念することが決定された。
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4. 新しい裏切り1925年7月頃、理由は何であれ、組織指導者――エアモン・ドネリー(Eamonn Donnelly)――は、熱狂に陥っているところがあり、リメリック州、クレア州、ティペラリー州における組織は健全ではないと報告した。大英帝国はオースティン・スタックとアルト・オコンナー(Art O'Connor)の訪問を受け、「シン・フェイン党はイングランドとスコットランドで公式に認められた唯一の国民組織である」という好意的報告書が書かれた。この月、アルド・ホワーレは全評議員に、来たる自由国議会上院議員選挙において投票拒否するよう支持し、選挙はほとんど失敗同然であった。 11月17日、18日、19日は、10月から延期されていたアルド・エイスが開かれた。カヒルキヴィーン(Cahirciveen)決議が提出された。これはシン・フェイン党代議士が「全アイルランドのための共和主義議会のみに参加する」ことを求めるものである。代表の多数派は明らかにそれを支持した。それは、デ・ヴァレラによって執拗に反対された。 二日間の演説後、それは採択され、現在に至るまで組織の政策として変更されていない。それに先立つ2か月間、「シン・フェイン党の土台」と呼ばれるものが、オフラナガン牧師が議長でJ・J・オケリー(JJ O'Kelly, Sceilg)を書記とする小委員会で作成されていたというのが事実である。委員会の委員であったデ・ヴァレラは、その集まりのほとんどに欠席し、その欠席は病気のためと説明されていた。 この委員会の結論は当然のように発行されたが、決して実行されなかった。1926年のはじめ、デ・ヴァレラはアルド・ホワーレに、3月10日に臨時アルド・エイスを開催するよう提案した。緊迫した関係がすでに常任委員会の委員のあいだにも明らかにあった。彼らの多くは、カヒルキヴィーン決議を実行する必要を――もう遅すぎたが――見いだしていたのである。 デ・ヴァレラのこのアルド・エイスへの動議は、もし誓約さえしなくていいならレンスター議会に入りたいという熱望にあることははっきりしていた。この動議は、いかなる名前であっても分断議会に参加する考えを拒否するオフラナガン神父による改正によってはじかれた。しかし、これは改正として実現したが、主要な動議として検討されたときには、充分な多数の賛成を得られなかった。合同委員会はそれから調和を復元する努力を行ない、シン・フェイン党組織のかつての一体性によって維持できたいくつかの合意に達したのである。 この委員会の結論の写しは、シン・フェイン党のアルド・ホワーレと第2回ドーイルに送られるべきであることが合意された。デ・ヴァレラは即座にシン・フェイン党の党首を辞任し、すぐにフィアンナ・フォーイルを結成し、その後、共和国政府ドーイル・エーランの大統領から免職された。英国王への忠誠の誓いさえなければ自由国議会に入るという彼の意志を発表しておきながら、彼はすぐに自分の党を率いて強奪者の議会に行き、誓いを受け入れ、「彼らを放り出すために彼らを取り込め」というスローガンのもと、共和主義者政治犯の背後を脅かす力を行使した。 シン・フェイン党のアルド・ホワーレの続く会議において、「新しい出発」を認めたすべてのチェアハタイー(Teachtai)に、一つの決議が手渡された。ケアン・コワーレ(Ceann Comhairle, Sceilg)は、ドーイル・エーランの議員として辞表を提出すること。シン・フェイン党の書記たちは、もはや、彼らを選出し、選挙を応援してきた組織の代表ではないと通知すること。シン・フェイン党によって与えられた選挙費用を返済すること。フィアンナ・フォーイルの代議員たちはこれを拒否し、彼らの選挙や選挙費用がシン・フェイン党組織に援助されていたことを否定した。 数年後――1933年7月――デ・ヴァレラ氏はレンスター議会で共和主義者の資金について話した――それはアメリカ人からの借用も含む――。「わたしは、その資金が第2ドーイルのものだと主張します――そう信じます。もしわたしたちがまだこの議会の外にいた1927年、選挙で多数を獲得していたならば、わたしたちは第2ドーイルを召集し、その責任を負っていたことでしょう。資金は全アイルランドのためのアイルランド共和国のために寄付されたものです。自由国は全アイルランドのための共和国ではありません。自由国はその共和国ではなく、資金の収支は自由国に行くべきものではないのです。 わたしたちが離れたかの組織(シン・フェイン党)に残っている人々は、1925年までわたしたちがいたのと同じ組織の後継者だと主張できます。彼らはそれができます」 1947年7月には、年金目的で使った総額2万5000ポンド相当の資金の使い込みに対する動議が行なわれ、それに勝つためにシン・フェイン党はこの問題を法廷に持ち込んだ。 デ・ヴァレラがまさに実質的に支持者を有しており、彼の脱退によってシン・フェイン党の勢力は深刻に削がれたという事実は否定できない。
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5. 新しい職務わたしたちは資産なしに残された――会計には26ポンドほどしか残っていなかった――そしてわたしたちはすぐに高価なサフォーク通りの本部を明け渡し、パーネル広場16番地に移らねばならなかった。これらの建物は焼き討ちに会い、わたしたちの歴史的文書が多く失われた。わたしたちはしばらくのあいだ落ち着かず、会合はドーソン通り、モレスワース通りなどで開かれた。また、これらの集会の存在を探し、あるいは探そうとする自由国軍によって急襲の対象とされ、押収された文書・文献は帰ってこなかった。
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6. 勝利のためにそれは1905年から1956年に至るまでの悲痛な叫びである。もし「最も健全な生存」に何らかの意味があるとすれば、それは今年――設立から51年目――行なわれた事実で確実に例証されている。今年、シン・フェイン党がその力を帝国のすべての資源と戦わせた。奪われた領土――6州――に行進した。そして、棄権主義者の政策にのっとってウェストミンスター普通選挙において12選挙区すべてに立候補することによって、どの部分をとってもアイルランドのものであるとする権利を表明した。この歴史的分野において一つでも勝利することは、職業政治屋のリップ・サービスをすべてあわせたよりずっと有効に、分断を終わらせる役に立つだろう。組織は、その全勢力を選挙に注ぎ、その結果、囚人候補者が1議席どころか2議席を獲得した。ティローン・フェルマナーのフィリップ・クラーク(Philip Clarke)と中部アルスターのトーマス・ミッチェル(Thomas Mitchell)である。そして、シン・フェイン党に合計15万2310票が投じられた。 付け加えるならば、キャンペーンの宣伝威力は非常に大きく、結果はユニオニストに厳しいものであった。ユニオニストは一度、12か月以上の懲役を「有罪宣告された重罪人」は欠格者だという根拠でクラークを当選させないように請願をしたことがある。クラークの立候補が受け入れられたときに、もちろん彼らはこのことを知っていたが、クラークがまさか首位当選して戻ってくるなどとは夢にも思っていなかった。ミッチェルの場合に取られた手続きは違っていた。彼は英帝国議会によって議席を失わされ、補欠選挙が行なわれた。シン・フェイン党はもう一度ミッチェルを立候補させ、普通選挙で3倍以上の多数を占めてミッチェルはまたも当選した。このとき、ユニオニストはクラークの場合と同様に請願し、どちらも同じような経過で落選が宣言され、その議席は敵対するユニオニストに与えられた。3度目の中部アルスター選挙では、トム・ミッチェルはユニオニストと「ナショナリスト」対立候補に対抗して、2万4124票を獲得した。 この狂信的な妨害は、シン・フェイン党に対して払われた最大の賛辞である。それが暗示しているのは、これこそ今日の世界を支配している物質主義的傾向に次第に併合されていくかと思われたこの国における――そして敵の砦すべてに対する――真の国民精神の復活が実現されているということなのである。 民主主義に対する英国の最近の攻撃がどれほどのものであろうと、アイルランド国民全体の精神的・国民的な見解は不変であり、変えることができないというのは、いまもなお事実なのである。ピアースがオドノヴァン・ロッサの墓で述べたように、「一世代前の若者によって種が蒔かれ、若者の心に結実する神の奇跡を、彼らはうち消すことはできない」のである。また、テレンス・マクスウィニー(Terence McSwiney)はこのように強調して書いている。「神の巻物が手に入れられて、わたしたちの夢が消えるようにように定命者によって書き直されたならば、自由を求める戦いは失敗するだろう。しかし、天の命令が有効である限り、崇高な弁護と希望のために叫ぶならば、このような渇望は、ゲーヘールの心の中に忍耐と古い愛への忠誠を生み出すのである」。 シン・フェイン党は、今、過去の愛国者の原則的な教えと希望を具現化する。そして、神の恵みとともにこれらの努力を見習い、わたしたちの遺産であるアイルランドのために働き続ける。彼らはたいまつをわたしたちに手渡した。活動しよう。今日、カイトリーン・ニー・ウアリャハン(Caitlin Ni Ualiachain=国境なきアイルランド)が「4つの美しい緑の野」の挑むこともできない淑女として崇拝されるのを見るという喜びがわたしたちには与えられているのだという希望を抱いて。 |
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目的 基本的立場 インタビュー
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