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IRELAND 共和主義シン・フェイン党 UnOfficial
 

共和主義シン・フェイン党党首
ライリー・オブラディ(ROB)のインタビュー


1986年、シン・フェイン党アルド・エイスから出てくるライリー・オブラディ
 


共和主義シン・フェイン党党首ライリー・オブラディへの以下のインタビューは、ベルファストのクイーンズ大学コノリー研究会によって出版されたアイルランド共和主義者の若者向けの理論的雑誌The Spirit of Freedom(自由の精神) 1997年2月発売号に掲載されたものである。

 

 

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Q:共和主義シン・フェイン党は、どのようにしてアイルランドの自由をうち立てると提案するのでしょうか。

ROB:一言でいえば、アイルランドにおける帝国主義に対するすべての闘いに、国内外のアイルランド国民を集め、国内外のアイルランドの友を伴わせることによって達成できるでしょう。

 

 

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Q:もう少し細かく説明していただけますか。

ROB:わたしたちは、英国軍と英国に支援された勢力によってアイルランド国民が押しつけられた、アイルランド内の両国家を拒絶します。わたしたちは、完全に新しいアイルランドを提案しています。国境より北の植民地国家も、国境の南の新植民地国家も受け入れません。26州新植民地国家が島全域に広がることも望んでいません。完全に新しい始まりこそ、アイルランドの状況を解決しようと関わっているだれもが受け入れられるものだと信じています。「ベルファスト・テレグラフ」(1995年9月20日号)でわたしが引用したように、ユニオニストは現在の26州国家をひどく嫌っており、ナショナリストはそれをいやがっています。わたしたちが考える最良のアプローチは、完全に新しいアイルランド、教会と国家の分離、宗教的多元社会、そして中央からすぐ地域に権力分散するというものです。これは、9州から成るアルスター地方を含む新4地方連邦アイルランドという言葉で考えているものです。

 

 

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Q:この分権化のアプローチは、どんな全体的利益を持っているのでしょうか?

ROB:これは3つのことを行なうでしょう。(1)アルスター地方の状況への回答を提示する。(2)アイルランド内の経済的不均衡を是正するでしょう。東海岸は、国の残りの地方の費用を使って経済的発展を享受してきたのです。(3)最も大切なことは、国民に力をもたらすということです。それは、可能なかぎり直接参加民主主義に接することができるようにするでしょう。アルスター地方の場合、現在の投票パターンでいえば、かつてのユニオニストは2.5%から5%程度の労働者の多数を得ることになるでしょう。ナショナリストは、彼らの力が手に届く場所にいられるでしょう。アルスター南部とアルスター西部でも、ナショナリストが多数派を占め、アルスター東部とベルファストは元ユニオニストが多数派となるでしょう。地元の多数派に従う地区協議会レベルでは、地元の警察の管理を含めて、彼らが非常に強力な力を持つことを提案します。それゆえ、アルスターの9州は、地元の多数派に従えば、パッチワーク・キルトのようにみえることでしょう。

エーレ・ヌア(EIRE NUA)

要するに、これが権力の分散を進めるのですが、垂直の権力を共有することが強制されたサニングデールのような人為的なものとして言っているわけではありません。こんなモデルではなく、わたしたちが提案するのは、地元の多数派による水平レベルでの自然な権力分散なのです。これは、アイルランド社会のさまざまなレベルで効果的な地方分権を生みだすでしょう。わたしたちは外事や国防、政府の連邦レベルで確保される投資全体を見通しています。この機能はダブリンから完全に取り去り、国の中心に位置するアスローンに再配置することを提案します。これは、過去と、商業資本によって管理された首都地域の完全な破壊です。これは、現実の分権化を容易にするものであって、官公庁の役人のまわりにばらまくのではありません。それはまったく分権化ではないのです。権力と決定権の再分配があるのです。

 

 

Q:これらの提案へのユニオニストの回答は?

ROB:70年代と90年代を通じて、ロイヤリストを含むさまざまな意見のユニオニストと会ったときには、わたしたちはこう尋ねました。「あなたを残して英国が離れることになったらどうしますか?」その答えはいつも、独立した6州国家を作るというものでした。しかし、それは存続できないだろうと思いますよ、と言い、もしそれが存続できなかったらどうするつもりですか、と尋ねると、彼らの答えはいつも、わたしたちの4州案が最善のものだと答えたのです。

 

 

Q:簡単に主要な政策文書を示してくださいますか。

ROB:共和主義シン・フェイン党は3つの政策文書を持っています。まず第一に 「平和なアイルランドに向けて」 は、アイルランドから離れるという英国の約束をもたらすための方法を描いています。これは、わたしたちがすでに述べたようなアイルランド国民のために作られるアイルランドのための新しい憲法を制定するための憲法制定会議のための全アイルランド選挙を提案しています。第2に、 「エーレ・ヌア(EIRE NUA)」 文書と、第3に 「スィール・ヌア(SAOL NUA)――代わりの社会」。「スィール・ヌア」 は、共和主義者、民主主義者、社会主義者、自己信頼、環境の原則に基づいています。

 

 

Q:国際的な視野を概説していただけますか。

ROB:国際的な場面で、わたしたちは常に非同盟運動に賛同してきましたし、東西の勢力ブロックに反対しました。いまや、東側は世界でも巨大な一つの勢力となっています。わたしたちはアイルランドの中立と非同盟を信じます。アイルランドが元植民地であった場所に平和をもたらし、闘争の時代を通じて作られたリンクは未来に置いてアイルランドをよい立場に置くことができると信じています。

 

 

Q:共和主義シン・フェイン党は、「暫定派」シン・フェイン党とどのような違いがあり、あなたの党が「真の」共和主義を体現しているということをどのように訴えるのですか。

ROB:これは、歴史的な流れから見なければなりません。人々は、自分たちの場合に合うような歴史の一部を選びたがります。それは、フィネ・ゲールとフィアンナ・フォーイルなどが活動した時代に共和主義運動を押し込めてしまいがちです。わたしたちは、今世紀、国の自由と独立のための闘いの二つの山場を迎えました。最初が1920年代で、次のピークは1970年代と1980年代です。どちらの時期も反革命がもたらされました。

1922

それは、1922年、英国が運動を止めたときに起こったことです。彼らは指導部の分派を服従させて、その分派に革命の潮流を防ぎ、逆流させるような支援者を組織させました。わたしが言っているのは、いわゆる「内戦」です。わたしたちは、それが内戦などであったと認めません。使われた人員は主として内国人でしたが、国内の問題ではなかったのです。そこから、クマン・ナ・ゲーヘール(Cumman na nGaedheal)すなわちフィネ・ゲールと現在自称しているものが生まれました。フィアンナ・フォーイルを結成した人々は1927年に運動にとどまり、フィネ・ゲールと同じ道をたどって体制に吸収され、銃殺部隊を共和主義者のために使ったのです――彼らは英国の絞首刑執行人を輸入しようとしさえしました! 彼らは人々に政治的地位を与えるのではなく、ハンガー・ストライキで死なせ、数百人の、フィネ・ゲールの場合は数千人の男女と子供を強制収容所送りにしたのです。

1940年代

その後、40年代の終わりにクラン・ナ・ポブラハタ(Clann na Phoblachta)による第3の分裂がありました。これはおそらく、それまでなかった何かに運動を変換しようとするものではなかったので、最も穏健な例でしょう。彼らは運動の外で組織化し、26州の最初の連立政府に二人の議員を送り込み、それから衰えていきました。共和主義を強制するのに貢献したというよりは、実際は政府を倒してしまったわけです。彼らが単独政党政府をダブリンで作っていたらどうなっていたか、ということは未決問題ですが、これは政府内における少数党として試されたときに何ができるかということであり、彼らの多くは運動を後退させる働きをしたのです。

1970

それから、同じことを労働者党が繰り返しました――革命運動を憲法と改革主義政党に変えようとしたのです。もちろん、彼らは共和主義運動であると主張しました。彼らがシン・フェイン党であり、彼らがIRAであると主張しましたが、悪しき樹はよい果実を実らせることはなく、その正体はすぐに露見しました。時が来て、それはすべて結実しました。若い人たちは、プロワンシア・デ・ロッサ(Proinsias de Rossa)がダブリン最高裁で述べた「これらの人々が共和主義運動のあらゆる面に参加している」という言葉しか知らないかもしれませんが、彼らは体制に完全に吸収されて、自由国の中で最も熱心な支持者になってかつての同志たちに敵対しました。わたしもその元同志たちと一緒にクラー強制収容所に投獄されて、軍事・政治的活動に関わることになったのです。

1986

1986年の出来事は、繰り返しの流れによれば、アイルランド反革命が20世紀で5番目に明らかになったのでした。共和主義運動を、そうではない何かに変えようとする試みが再度なされたのです。それは本質的に革命運動です。それを憲法路線に沿ったものにしようという試みがなされ、レンスター議会(アイルランド共和国議会)・ストーモント(北アイルランド議会)・ウェストミンスター(英国議会)に議席を占めようというよりも、今回は屈服という転落を始めています。しかも軍事組織も同時に転げていきました。これはいっそう緩やかなプロセスで、南部国家を全面的に始めて受け入れることを達成し、それから少しずつ(たとえば、まさに英国軍が殺した人々を敬うようにRUCに申し入れて)6州国家を受け入れていきました。それから政治的忠誠の検査を地方選挙とストーモント議会選挙で受け入れましたが、これは、共和主義運動は明確に公然と自分たちのものではないとし、アイルランドの公正な自由と独立を達成するための活動的闘争を行なうことを弾劾するものです。わたしたちはこんなことに備えていませんでしたし、もちろん過去にも起こったように、わたしたちが特定の選挙から排除されていることがわかりました。これは、違う方向へ向かって走ろうとしている二頭の馬に同時に乗ろうとするなら避けがたい結果でした。これが人々を引き離したのです。

わたしたちはこのことを人々に警告し、その当然の結果はひじょうに緩やかに経過しました。最初は、ダブリンに中心が置かれた国家を受け入れたとき、南部選挙で暫定派の投票率が低下しました。それから、英国撤退の要求が、施政演説として評価されてきた年次ボーデンスタウン演説から抜け落ちたのです。それから、わたしたちは秘密のヒューム/アダムズ文書を手に入れました。それは1993年8月27日の「サンデー・トリビューン」で暴露されるまで1年かかりました。これはユニオニストの拒否を受け入れて、さまざまな制限を設け、自由で独立したアイルランドに反対するものです。これは、1994年8月の、一方的で不明確、無条件の停戦を招きました。

これは1972年や1975年に起こったこととは違っており、きわめて対照的です。当時のどちらの場合も英国政府代表者に同意した相互停戦協定は一時的なものであり、1975年の場合には、停戦協定は明文化されていました。12条項が作成され、条項12はその他の11条項への違反がいかなる出来事においてももたらされた場合の違約条項でありました。英国の公的撤退が与えられたとき、すべては捨てられました。1972年は約2週間続き、1975年にはそれは7か月半続きました。このときの停戦は、ダブリン政府によって反対されたのです。ギャレット・フィッツジェラルドの本(新しいアイルランドに向けて)は、ときのダブリン政府が英国政府に「アイルランドからの英国撤退を望まない」と明言したことを明らかにしました。さらに、英国に戻ったロイヤリスト組織が状況を利用して、罪もないナショナリスト市民に対して未曾有の暗殺攻撃を仕掛けたのです。このことと、英国政府のアイルランドからの撤退拒否が、1975年のプロセスを終わらせてしまいました。

共和主義シン・フェイン党がとどまっている共和主義運動は、革命的役割を果たします。暫定派運動は、わたしたちが見るかぎり、いよいよ体制に取り込まれてしまっています。これが1986年から起こったことであり、わたしたちが何度も何度も経験してきたと述べていることでもあります。

かいつまんで説明しますと、合衆国で彼らは、ワシントン政権とアメリカ企業に従属し、25年間も毎週5ドル、10ドル、20ドルを囚人のための支援のために寄付してきた人々、合衆国における支援の頼みの綱であった人たちを捨てました。今や彼らは、1969年から1杯の水すら恵んでこなかったようなもっと金持ち、億万長者などを友人としています。これが違いです。この全プロセスがその進路を進め、その必然的な結果として英国議会にSDLPが参加するのが早まれば、もっといいでしょう。ものごとがもっとはっきりしてくるからです。

 

 

Q:共和主義シン・フェイン党は、反植民地闘争において若者にどんな役割があると考えていますか?

ROB:独立戦争には首尾よく勝つことができるでしょうが、解放への闘いは続けなければなりません。若い人たちに言いたいのは、皆さんが共和主義シン・フェイン党に参加するための場所は空いているということです。人類の解放のための闘いの兄弟姉妹の中に、あなた方は場所を占めることができるのです。そして、これ以上に高潔な闘いがあるでしょうか? 若い人たちは、完全な役目を果たして、アイルランドに歴史の新しい夜明けをもたらすことを助けることができます。大きくは世界の人類史への新しい夜明けをもたらすというわたしたちの貢献において。20世紀全体が人類発展の連続でしたが、帝国主義はそれを操る道を続けています。わたしたちは反対し続けなければなりません。21世紀は、わたしたちが20世紀に経験したよりもずっと大きな挑戦を挑んでくるでしょう。帝国の勢力は、容易に対抗できないものになっているだろうからです。それは人々を鎮圧するための社会的・経済的・文化的手段を用いてくるでしょう。若い人たちはこれと戦う方法を見つけなければなりません。これこそが共和主義シン・フェイン党の役目なのです。

 

 

Q:新帝国主義の流れの中で、クリントン政権が現在アイルランドに持っている関心をどのように考えますか。

ROB:英国政府がここを支配しようとするかぎり、アイルランドには決して平和が訪れることがないとわたしたちは述べています。戦争は押さえつけることができるかもしれませんが、いつでもまた勃発するのです。これはアイルランドの歴史がわたしたちに教えてくれることであり、1994年8月31日にアイルランドの歴史は停止したわけではないのです。

ホワイトハウスの「善意」

クリントン政権の関心は、利他的なものではなく、アイルランドの自由を助けることも支持していません。いわゆる北アイルランド国家との対話を続け、アイルランドについて語るときは26州国家をい密使邸ます。それゆえ、彼らの言葉には切り裂かれたアイルランドがあるのです。ここには、アイルランドである26州国家と、北アイルランドと呼ばれる切り裂かれたアイルランドの政体である植民地国家があるのです。しかし、フランスのことを北フランスとフランスと呼べばおかしいでしょう。これは言葉の否定です。クリントン大統領がわたしたちへのビザを断ったとき、彼は「共和主義シン・フェイン党が現在のプロセスを受け入れ、わたし自身が現在のプロセスを受け入れないかぎり、党員はビザを得られない」と下院議員に手紙を書いたのです。それほど特別なことであり、「テロリスト攻撃」と主張された問題ですらなかったのです。共和主義シン・フェインが特定の路線を受け入れないことが理由でした。彼が4年前に選出されたときにはまだ、すべての共和主義スポークスマンに対してアメリカはビザの発行を約束していました。それは政治的取引の終わりなのでしょう。――「もはやジョー・ドーティーの時代ではない」――そして、彼はまだジミー・スミスを引き渡し、パイプラインには他の例があります。クリントンも、マクブライド原則が受け入れられると約束していましたが、マクブライド原則を支持して会議で承認された法案には拒否したのです。

クリントンの新世界秩序(NEW WORLD ORDER)

クリントンの善意はひじょうに多くあります。ホワイトハウスとアメリカ企業の関心は、アイルランドにおける革命的努力に水を差し、アイルランドの安定を確保して、一時的な多国籍企業投資のための土台とし、ここでの利益を確保し、最大化することなのです。MITのノーム・チョムスキーは経済のグローバリゼーションについてこう書いています――「繁栄は少なく、不安は多く」。このプロセスの効果は、先進国の第一世界から、賃金はカットされ環境的・生態学的関心が完全に無視される途上国の第三世界に移すことです。第一世界で要求される賃金は、これらの企業は払う必要がなくなりますし、環境をきれいにすることを要求されることもなくなります。こうして、彼らの利益は最大となります。このパターンは、アイルランドにおけるホワイトハウスとアメリカ企業の関心にも一致します。彼らは英国支配の調停をアイルランドに固定し、それを国際的にさらに容認させることを求めているのです。

 

 

Q:ドラムクリー阻止に対して、共和主義シン・フェイン党はどう反応しましたか。それ以前に何があり、その後に何がありましたか?

ROB:わたしは、ドラムクリーで阻止するという決定が、国内でのRUC決定であったということは一瞬たりとも受け入れていません。英国はまた、北東アイルランドの同じ地区からの暴力の脅威に直面することを放棄したのです。それはまさに、1886年、ランドルフ・チャーチルが「オレンジ・カードは議会支配に反対する行動に対する指示だ」と述べたのとちょうど同じですし、1912年〜14年の危機のあいだに、また1992年に再びなされたのとちょうど同じなのです。

この国の自由と独立の問題が起こるたびに、英国政府はこの要求を満たすための暴力と大虐殺の脅しの前に放棄してきました。わたしたちは、サニングデールの崩壊をもたらした1974年のオレンジ・ストライキを見ましたし、昨年の夏にはドラムクリーを見たのです。それが起こるたびに、新しい世代は状況の真実を見抜くことになります。だから、そこから学ぼうとする人には、教科書は目の前にあるのです。

 

 

Q:この島についての調停の余地はありますか?

ROB:この島のだれもに余地があります。どんな少数派も、政治的断崖の縁に断たされる必要はありません。しかし、調停問題は、統一されたアイルランドの状況においては、かつての「ユニオニスト」少数派を単に扱うものではないのです。それは、アイルランドの言語的少数派、都市内の少数派、未婚の母や失業者など機会を奪われた人々の少数派を扱うものです。彼ら自身の社会から人々の一部が阻害されるという問題は全体的に、マーストリヒト国民投票のあいだに顕著に生じたものです。そして、この島の3分の1の下層階級の人々があらゆる意味で特権を奪われ、剥奪されたたいへんひどい状況にあるあいだ、3分の2の人々はそこそこいい生活をしていたという事実も指摘されました。問題は、アイルランド社会がアメリカ型に沿って組織されつつあるということです。世界で最も裕福な国であっても、自国の莫大な社会的・文化的問題を解決できないのならば、そのシステムをまねたとき、わたしたちはどうやって自分たちの問題の解決を期待することができるでしょうか。わたしたちは、既存の限界を超えて、選択肢を探し求めなければなりません。

 

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目的 基本的立場 インタビュー
政策 Eire Nua Saol Nua 平和なアイルランド
  アイルランド共和主義 生産手段 宣言 立場 ブレア
党史 選挙声明 1905〜1956 1970分裂 1971 1986分裂 選挙禁止
人物:ジェームズ・コノリードーイヒー・オコナル

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