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James Connolly
ジェームズ・コノリー

 


James Connollyジェームズ・コノリーは1868年6月5日、エジンバラのカウゲイト107番地で生まれた。両親のジョンとメアリーは、1850年代にモナハン州からエジンバラに移住してきたのだった。父は肥料荷馬車屋として夜中に道路の糞を集め、母は家政婦であったが慢性気管支炎に苦しみ、その病気のために若くして亡くなった。

当時、反アイルランド感情が強かったため、アイルランド人は、「小アイルランド」として知られるようになるカウゲイトとグラスマーケットのスラムに住むことを強制された。過密、貧困、病気、飲んだくれ、失業であふれていた――有効な唯一の仕事は、中古服販売か、荷運び人夫または荷馬車屋として働くことだけであった。

ジェームズ・コノリーは、二人の兄、トーマスとジョンと同様に、カウゲイトの聖パトリック学校に通った。10歳のとき、ジェームズは学校を卒業し、エジンバラの"Evening News"新聞社で仕事を見つけた。ここで彼は、インク・ローラーを洗浄したり、大人の社員にビールや食事をとってくるなどして「悪魔」のように働いたのである。兄のトーマスも同じ新聞社で働いていた。1882年、14歳のとき、彼は英国軍に加わって約7年間働いたが、その全任務においてアイルランドにおり、そこで彼はアイルランド国民が英国のためにひどい扱いをされていることを初めて目撃したのだった。英国と領主によるアイルランド人虐待は、コノリーが英国軍への強烈な憎悪を培うことになった。

アイルランド任務のあいだに、彼は後に結婚することになるプロテスタントのリリー・レイノルズ(Lillie Reynolds)と出会った。1888年に婚約し、翌年、コノリーは英国軍をやめて、スコットランドに戻った。1890年、彼とリリー・レイノルズはパースで結婚した。

1890年の春、ジェームズとリリーはエジンバラに引っ越し、ウェストポート22番地に住んだ。そして労働者として、それからエジンバラ会社で肥料荷馬車屋として働いている父と兄に加わった。それはまさに一時的で臨時の収入源であった。

彼は社会党と労働組合サークルで活動し、スコットランド社会主義者同盟(Scottish Socialist Federation)の秘書になったが、それはほとんど間違いによってであった。そのとき、兄のジョンが秘書だったのだが、ジョンが1日8時間労働制を支持すると話したところ、彼は会社から首にされ、そのために仕事を探している間、ジェームズが秘書を務めることになったのだった。この期間に、コノリーは1893年にカー・ハーディー(Kerr Hardie)が設立した独立労働党(Independent Labour Party)にのめり込むようになった。

 

 

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靴修理屋

1894年の終わり、コノリーは会社の仕事を失った。彼は1895年2月にBucclevch通り73番地で靴修理屋を開いた。このビジネス上の冒険は成功しなかった。スコットランド人社会主義者のジョン・レスリー(John Leslie)の誘いで、1896年5月には週に1ポンドの給料でダブリン社会主義者協会の職員となった。ジェームズ&リリー・コノリーと3人の娘、ノーラ、モーナ、アイディーンは1896年にダブリンに向かって出発し、そこで彼はアイルランド社会共和党を1896年5月に設立することになる。

1898年、コノリーは講演と賃金値上げツアーのためにスコットランドに戻らなければならなかった。アイルランドを去る前に、彼は最初のアイルランド社会主義者の新聞"The Worker's Republic(労働者の共和国)"紙を創刊していた。これは妻と3人の娘とともに住んでいたピムリコ54番地の家から発行されていた。ほかに6家族、あわせて30人が同時にピムリコ54番地に住んでいたのである!

1902年に、彼はアメリカ合衆国での5か月間の講演旅行に行き、ダブリンに戻るとすぐ、ISRP(アイルランド社会共和党)が形骸化しているのを知った。彼はエジンバラに戻り、社会民主同盟のスコットランド人地区で働いた。

それから彼は1903年に社会主義労働者党の創設会議の議長を務めたが、彼の党がにっちもさっちもいかずに失敗したとき、コノリーは失望して、1903年9月には合衆国に移住し、1910年7月まで戻らなかった。合衆国では、彼はアイルランド社会主義者同盟をニューヨークで創設し、もう一つの新聞"Harp(琴)"紙を発刊した。

1910年、彼はアイルランドに戻り、翌年6月には彼はジェームズ・ラーキン(James Larkin)のアイルランド運送業と一般労働者同盟のためのベルファストでの組織者となった。1913年、彼は共同で労働党を設立し、1914年にはジェームズ・ランキンとともに、労働者大規模締めだしにおける雇用者同盟への反対運動を8月に組織した。ラーキンは1914年末にアメリカへ講演旅行を行ない、ジェームズ・コノリーはアイルランド労働運動の重要人物となっていた。

 

 

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アイルランド市民軍

前年1913年は、コノリーがアイルランド市民軍をITGWUの本部である労働会館で共同設立した年でもある。この組織ICA(アイルランド市民軍)は、労働者の権利を守るために設立された。1914年10月、コノリーはダブリンに戻ってそれからは移動せず、12月にはもう一つの新聞"Irish Worker(アイルランドの労働者)"が弾圧されたために「労働者の共和国」を復刊させた。

「労働者の共和国」紙のなかで、コノリーはゲリラ戦についての文章を書き、アイルランド義勇軍(Irish Volunteer)として知られる団体が活動していないことを継続的に攻撃した。この団体はアイルランド市民軍が暫定委員会に参加することをまったく認めることがなかったが、武力活動のための行動計画もまったく持っていなかった。

アイルランド義勇軍はこのときまでに約18万の勢力を持っており、指導部によって対独戦争における英国支援を強いられていた。アイルランド義勇軍の暫定委員会の半数が、アイルランド国民議会党リーダーのジョン・レッドモンド(John Redmond)陣営であったことは明記しなければならない。アイルランド義勇軍は分裂し、多数派はレッドモンドとともに国民義勇軍(National Volunteers)に移行し、約1万1000人がレッドモンドとその派閥に別れを告げた。

しかしながら、1915年2月、「労働者の共和国」紙はダブリン城当局によって弾圧された。それでもなお、コノリーはさらに好戦的になっていった。1916年1月、アイルランド共和主義者同盟(IRB)は、コノリーのICA工作によってダブリンで警戒状態となったが、コノリーは蜂起のための準備が明らかにできていないといらだった。そしてIRBはジェームズ・コノリーに委託することを決定した。それからの数か月、彼は蜂起のための準備に加わり、彼自身のアイルランド市民軍を含むダブリンの共和軍の軍事指導者に任命された。

彼は復活祭のあいだ、GPOの共和主義者司令部の指揮にあり、ひどく傷ついた。彼は包囲後、逮捕されて軍法会議にかけられた。1916年5月9日、ジェームズ・コノリーは軍法会議でベッドの上に乗せられたまま、銃殺による死刑を宣告された――彼はそのとき、ダブリン城の軍病院に収容されていたのだ。"Irish Independent"紙の5月10日号のトップ記事のなかで、1913年の労働者大締め出しで雇用者側を率いたウィリアム・マーティン・マーフィーは、英国政府がコノリーを処刑するよう勧めた。

5月12日の夜明け、ジェームズ・コノリーはダブリン城からキルマンハム(Kilmainham)刑務所に救急車で移動され、担架で刑務所の庭に運ばれて、庭の隅の椅子にしばられて、射殺部隊によって処刑された。コノリーの遺体は、他の処刑された14人のリーダーたち同様、アーバー・ヒル刑務所に隣接する英国軍墓地に運ばれて、大きな石灰の墓の中に棺桶もなく埋葬された。

彼が1916年独立宣言の7人の署名者の一人であったという事実は、彼の影響を示す証拠である。

補足として、そして個人的に、ジェームズ・コノリーが1916年4月16日にアイルランド市民軍に語った言葉を引用したい。

「われらの勝率は1000分の1。だが、勝ったとしてもライフルを構え続けよ。われらの目標が達成されるまえに、戦っている相手が止まるかもしれないからだ」

共和主義シン・フェイン党が「ゴールに到着する前に止まった」とみなす人々に指摘しておきたいのだが、ジェームズ・コノリーが椅子の上で死んだという事実について、妥協案に終わるような会議のテーブルに彼がその椅子を置いてほしかったなどと考えてはならない。

-- John Horan

 

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