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承平・天慶の乱
(平将門・藤原純友)

 
将門記
1 発端
 

※将門記の冒頭部分は失われている。そのため、将門記の冒頭の内容に当たると思われる別の文章をここにあてはめる。

●『将門略記』冒頭部分

聞くところによれば、かの将門は昔の「天国押撥御宇(あめくにおしはるきあめのしたしろしめす)」柏原(桓武)天皇五代の後裔であり、三世高望王の孫である。その父は陸奥鎮守府将軍・平朝臣良持(よしもち)である。弟の下総介・平良兼朝臣は将門の伯父である。ところが、良兼は去る延長九年(931)に、少々女論(女性に関する紛争)によって叔父(舅)・甥の間ですでに関係が悪化していた。

●『歴代皇紀』朱雀天皇条

将門合戦状にいわく、始め伯父・平良兼と将門と合戦し、次に平真樹に誘われて、承平五年二月、平国香ならびに源護(みなもとのまもる)と合戦した。

 

●野本付近の合戦

裏等、野本□□□□(源)扶(みなもとのたすく=源護の子)らが陣を張って将門を待った。遙かにその軍の様子を見ると、いわゆる兵具の神に向かって旗をなびかせ、鉦を撃っていた。ここで将門は退こうと思っても退けず、進もうとしても進めなかった。しかし、身をふるいたたせて進み寄り、刃を交えて合戦した。将門は幸いに順風を得て、矢を射れば流れるようであり、予想通りに矢が命中した。扶らは励んだがついに負けた。このため亡くなった者は数多く、生存した者は少なかった。

その(承平五年二月)四日に、野本・石田・大串・取木などの住宅から初めて、扶の味方をした人々の小宅に至るまで、皆ことごとく焼きめぐった。□□□□□□□□火を逃れて出た人は矢に驚いて帰り、火中に入って泣き叫ぶ。□□□□□□□□の中、千年の貯えも一時の炎に焼失した。また筑波・真壁・新治の三郡の伴類の家が五百軒余り、あるものすべて焼き払った。悲しいことに男女は火のために薪となり、珍しい財宝は他人に分配されてしまった。三界の火宅(苦しみの多いこの世)の財産にはそもそも五人の持ち主があり、持ち主が変わって定まらない、というのは、こういうことを言っているのだろうか。その日の火が燃え上がる音は雷鳴のようにすさまじく響き渡り、その時の煙の色は、雲と争うかのように空を覆った。山王神社は煙の中で岩の影に焼け落ち、人の家は灰のようになって風の前に散ってしまった。国衙の役人・一般人民はこれを見て悲しみ嘆き、遠い者も近い者もこれを聞いて嘆息した。矢に当たって死んだ者は思いもかけず親子の別離となり、楯を捨てて逃れた者は予期せず夫婦の生き別れとなってしまった。

 

●貞盛、去就に迷う

そのなかで平貞盛は朝廷に仕え、事件が起こる以前に花の都に参上し、経めぐるうちに詳しくことのいきさつを京都で聞いた。そこで貞盛が事情を考えてみるに、「自分はまさに常陸の前の大掾(三等官)・源護やその子息とはみな同族であった。しかし、まだ自分から加勢したわけでもないのに、その姻戚として縁があったがために、父・平国香の家はみなことごとく亡んでしまい、本人も死去してしまった」と。遙かにこの事情を聞いて、心中に嘆いた。財産については五人の主があるとかいうのだから憂い嘆くことはない。しかし、哀れなのは、亡父がむなしくあの世への別れを告げ、残された母一人が山野に迷っているという。朝には座ってこれを聞いては涙で顔を濡らし、夕方には横になってこのことを思っては愁えて胸を焼いた。

貞盛は哀慕の思いに耐えられず、休暇を申し出て故郷に帰った。ようやく私宅に着いて、亡父を煙の中に探し、母を岩の影に尋ねた。幸いに司馬(左馬允)の位に至ったというのに、帰郷してからは別鶴という曲のように嘆き悲しんだ。そして、人の口伝えで偕老の妻を得ることができ、人づてに連理の妻を得た。麻布の冠を髪につけ、菅の帯を藤の衣に結ぶという喪服姿とは悲しいことだ。冬が去り、春が来て、ついに親孝行ができなくなり、年が変わり季節が改まって、ようやく一周忌を済ますことができた。

貞盛がよくよく事情を調べてみると、将門は本来の敵ではなかった。これは自分たちが源氏の姻戚に連なっていたがためのことである。いやしくも貞盛は国家守護の職にある。都の官に戻って出世するべきである。しかし、やもめの母が家におり、子である自分以外にだれが養えようか。数々の田地は自分以外に誰が領有できようか。将門に和睦して、よしみを都と田舎で通じ合って、親しさを世間に広めよう。だから、このことを詳しく告げて、将門と親密にするのがよいだろう、と考えたのであった。

 

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承平・天慶の乱関連年表
平将門
将門記         10
今昔物語 古事談 源平盛衰記 源平闘諍録
藤原純友
大鏡 今昔物語 古事談
参考リンク

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