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承平・天慶の乱
(平将門・藤原純友)

 
将門記
8 新皇
 

●将門、新皇と称する

将門が天慶2年12月15日、上毛野に移る途中、上毛野の介である藤原尚範(ひさのり)朝臣は、印鎰を奪われ、19日には使者に付き添われて都に追い上げられた。その後、国府を占領して国衙政庁に入り、四門の陣を固め、諸国の官の任命を行なった。

このとき、一人の昌伎(巫女/遊女?)が、「八幡大菩薩の使い」と口走り「朕の位を蔭子(五位以上の人の子)平将門に授け奉る。その位階文書は、左大臣正二位菅原朝臣の霊魂が述べ伝える。右・八幡大菩薩、八万の軍を起こして、朕の位を授け奉るであろう。今、三十二相の音楽によってこれを迎えよ」と。

ここに将門は首をさしのべて二度拝礼した。また、武蔵権守(興世王)と常陸掾藤原玄茂らがこのときの取り仕切り人として喜ぶ様子は、貧者が富を得たようであり、笑う様子は蓮の花が開いたようであった。このとき、自ら諡号を奏上させ、将門を新皇と呼んだ。

 

●藤原忠平宛の上書

さて、公家(忠平)に事情を伝える手紙にこうある。

将門、謹んで申し上げます。あなたの教えをこうむらないまま多くの歳月をすごしました。拝謁を望んでおりますが、このあわただしい折、何を申し上げられましょうか。伏して高察を賜るならばありがたい幸せであります。

さて、先年、源護らの訴え状によって将門を召されました。官符は恐れ多いため、急ぎ上京し、つつしんでおそばにおりました間、仰せを承りまして、「将門はすでに恩赦の恵みにあずかった。そのため、早く返して遣わす」ということでしのたで、本拠地に帰り着くことができました。その後、兵のことは忘れてしまい、あとは弓の弦をゆるめて安らかに暮らしておりました。

その間に、前の下総国介・平良兼が数千の兵を興して将門を襲い攻めました(※子飼の渡の戦い)。敗走することもできずに防いでいるうちに、良兼のために人やものが殺されたり壊されたり奪われたりしたという事情については、詳しく下総国の上申書に書き記して、太政官に申し上げました。ここに朝廷は「諸国が力を合わせて良兼らを追捕せよ」という官符を下されました。それなのに、さらに将門を召喚するという使いが送られました。しかし、心中不安でならないので、結局上京することなく、官使の英保(あなほ)純行に託して詳細を申し上げました。

それに対する裁決がくだらないで鬱々と憂えていましたところ、今年の夏、同じように平貞盛が将門を召喚するという官符を握って常陸国にやってきました。そして、国司はしきりに書状を将門に送ってきました。この貞盛とは、追捕を逃れて、ひそかに上京した者です。公家はこの者を捕らえて事情をただすべきであります。それなのに、逆に貞盛の言い分が理にかなっているとする官符を賜ったというのは、うわべを取り繕っているからにほかなりません。また、右少弁・源相職(すけもと)朝臣があなたの仰せの旨を受けて書状を送ってきた文面には、「武蔵介経基の告訴状により、将門を審問すべきであるという、次の官符を下すことがすでに決まっている」とのことでした。

詔使の到来を待つあいだ、常陸介藤原維幾朝臣の息子の為憲は、公の威厳をかさにきて、冤罪ばかり好んでいました。このため、将門の従兵である藤原玄明の愁訴により、将門をその事情を聞くためにその国に出向きました。

ところが、為憲と貞盛らは心を合わせて、3000人の精兵を率い、思いのままに兵庫の武器・防具・楯などを持ち出して戦いを挑んできたのです。このため、将門は士卒を激励して、意気を高め、為憲の軍兵を討ち伏せてしまったのです。そのとき、1州を征圧する間に、滅亡した者は数もわからないほどです。ましてや存命した庶民は、ことごとく将門に捕獲されました。

介の維幾は、息子の為憲に教え諭せずにこのような兵乱に及ばせてしまった罪を自ら認める詫び状を出してきました。将門は本意ではありませんでしたが、一国を討ち滅ぼしてしまったのです。罪科は軽くなく、百県を征圧するも同じ罪です。このため、朝廷の評議をうかがうあいだに、坂東の諸国を領有していったのです。

伏して祖先のことを考えてみますと、将門はまさに柏原帝王の5代の子孫です。たとえ永く日本の半分を領有したとしても、それが天命でないとはいいきれません。昔は兵力をふるって天下を取った者が多く史書に載っています。将門は、天から授かったものは武芸であります。思いはかってみても、同僚のだれが将門に並ぶでしょうか。それなのに、公家から褒賞などはなく、かえって何度も譴責の官符を下されています。身を省みると恥ばかり。面目をどうやって施しましょうか。これを推察していただけますなら、たいへん幸いであります。

そもそも将門は少年のころ、名簿を太政の大殿にたてまつり、それから数十年、今に至ります。相国さまが摂政となられた世に、思いもかけずこのような事件となってしまいました。歎くばかりで、何も申し上げることができません。将門は、国を傾けるはかりごとを抱いているとはいえ、どうして旧主のあなたを忘れましょうか。これを察していただけますなら、たいへん幸いであります。一文で万感を込めています。将門謹言

  天慶2年12月15日
 謹々上、太政大殿の少将(師氏)閣賀 恩下

 

●将平の諌言

このとき、新皇の弟の将平らは、ひそかに新皇に進言して言った。「そもそも帝王の業とは、智をもって競うべきものではありません。また、力をもって争うものではありません。昔から今に至るまで、天を経とし地を緯とする(天下を治める)君主も、王位を受け継ぎ国の基を受けた王も、すべて天が与えたものです。どうして論じることができましょうか。おそらくは後世からそしられることになります。決して……」と。

これに新皇が勅していうには「武弓の術は日中両国の助けとなってきた。矢をかえす功績は我が命を救う。将門はいやしくも武名を坂東にあげ、合戦の評判を都にも田舎にもとどろかせている。今の世の人は、必ずうち勝った者を君主とする。たとえ我が国に前例がないとしても、すべて他国には例がある。去る延長年間に大契丹王(耶律阿保機)などは正月1日に渤海国を討ち取って、東丹国と改称し、領有した。どうして力をもって征服したのではないといえようか。さらに加えて、こちらは多数の兵力であたっている上、戦い討つ経験も多い。山を越えようとする心はおじけず、巌をも破ろうとする力は弱くない。戦いに勝とうとする思いは漢の高祖の軍をもしのぐだろう。およそ坂東8か国を領有しているあいだに、朝廷からの軍が攻めてきたら、足柄・碓氷の2関を固め、坂東を防御しよう。だから、汝らの申すことは、はなはだ迂遠なことである」といい、それぞれ叱られて退出した。

 

●伊和員経の諌言

また、くつろいでいたときに、内竪(ないじゅ=小姓)の伊和員経(いわのかずつね)が謹言した。「諌臣がいれば君主は不義に落ちないものです。もしこのことが遂げられなければ、国家の危機が訪れるでしょう。『天に違えばわざわいがあり、王に背けば罰をこうむる』といいます。願わくば、新天さまは耆婆(古代インドの名医。王をいさめた)の諫めを信じて、よくよくお考えの上での天裁を賜ってください」と言うと、新天皇は勅していう。

「能力・才能は、人によっては不幸となり、人によっては喜びとなる。一度口に出した言葉は四頭だての馬車でも追いつけない。だから、言葉に出して成し遂げないわけにはいかない。議決をくつがえそうとするのは、汝らの考えが足りないからだ」といった。

員経は舌を巻き、口をつぐんで、黙って閑居してしまった。昔、秦の始皇帝などは書を焼いて儒者を埋めた。あえて諫める者はいなくなってしまった。

 

●新政府の発足

一方、武蔵権守・興世王は当時の主宰者であった。玄茂らは宣旨と称して諸国の除目を発した。

下野守には、弟の平朝臣将頼(まさより)。
上野守には、常羽の御厨の別当、多治経明(たじのつねあきら)。
常陸介には、藤原玄茂(はるもち)。
上総介には、武蔵権守・興世王。
安房守には、文屋好立(ぶんやのよしたち)。
相模守には、平将文(まさふみ)。
伊豆守には、平将武(まさたけ)。
下総守には、平将為(まさため)。

こうして諸国の受領を決定した一方で、王城を建てるための謀議をおこなった。その記録によると、「王城を下総国の亭南に建てる。さらに、[木義]橋(うきはし)を名付けて京の山崎とし、相馬郡の大井の津を名付けて京の大津とする」。

そして左右の大臣、納言、参議、文武百官、六弁八史、みなすべて決定し、内印・外印を鋳造する寸法、古字体・正字をも定めた。ただし、決まらなかったのは、暦日博士だけであった。

 

●京中の騒動

この言葉を聞いて、諸国の長官は魚のように驚き、鳥が飛ぶように早く上京していった。そののち、武蔵・相模などの国に至るまで新皇が巡検して、すべて印鎰を掌握し、公務を勤めるよう留守の役人に命じた。さらに天皇位につくという書状を太政官に送達し、相模国から下総に帰った。

さて、京の役人は大いに驚き、宮中は大騒ぎになった。ときに本の天皇(朱雀天皇)は十日の命を仏天に請い、そのうちに名僧を七大寺に集めて、捧げものを八大明神に捧げて祈った。詔して言うには、「かたじけなくも天皇位を受けて、幸いに事業の基を受け継ぎました。ところが将門が乱悪を力となして、国の位を奪おうと欲しているといいます。昨日この奏を聞きました。今日は必ず来ようと欲しているでしょう。早く名高き神々におもてなしをして、この邪悪をとどめてください。すみやかに仏力を仰いで、かの賊難を払ってください」と。

そして本皇は座を下りて両手の平を額の上に合わせ、百官は潔斎して千度の祈りを寺院に請うた。ましてや、山々の阿闍梨は邪滅悪滅の修法を行なった。諸社の神祇官は頓死頓滅の式神をまつった。7日間に焼いた芥子は7石以上。そなえたそなえものは五色どれほどか。悪鬼の名号を書いた札を大壇の中で焼き、賊人の像を棘楓の下につり下げた。五大力尊は侍者を東国に遣わし、八大尊官は神の鏑を賊の方に放った。その間に、天神は眉をひそめ口元をゆがめて賊の分をわきまえない野望を非難し、地神は責めとがめて悪王の困った念願をねたんだ。

 

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