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承平・天慶の乱
(平将門・藤原純友)

 
将門記
10 その後
 

●将門の評価

天下にいまだ、将軍が自ら戦って自ら討ち死にしたような例はない。誰が予測し得たであろうか、小さなあやまちをたださなかったため、大きな害に及ぶとは。また、私的に勢力を拡大して、このように公の徳を奪うことになろうとは。このため朱雲のような人に託して長鯢の首をはねるようなことになったのだ(『漢書』にいう。朱雲は悪人である。昔、朱雲は尚方の剣をもらって人の首を斬った)。

こうして下野国から解文をそえて、同年4月25日にその首を献上した。

一方、常陸介・維幾朝臣ならびに交替使は、幸いに理にかなった運のめぐみを受けて、(2月?)15日をもって任国の館に帰った。それをたとえるなら、鷹の前におびえていた雉が野原に放たれ、俎の上の魚が海に戻されるようなものである。昨日は不運な老人のような恨みを抱き、今は次将(掾の貞盛)の恩を受けていた。

そもそも新皇が名声を失い、身を滅ぼしたのは、まさに武蔵権守・興世王、常陸介・藤原玄茂らのはかりごとによるものである。何と悲しいことか。新皇の背徳の悲しみ、身を滅ぼした嘆き。たとえるなら、花開こうとした穀物がその前にしぼみ、光り輝こうとした月が雲に隠れるようなものである。

『左伝』にいう。「徳を貪って公に背くのは、威力をたのんで鉾を踏み越えてくる虎のようなものである」と。そのため、ある書に「小人物は才能があっても使いこなせない。悪人は徳を貪っても維持できない」という。いわゆる「遠慮深謀がなければ、身近なところに問題が起こる」というのはこのことか。

さて、将門は官都に功績を積み重ねてきて、その忠誠を後々まで伝えている。それなのに生涯になしたことは猛乱が中心であり、毎年、毎月、合戦に明け暮れていた。このため、学業を修める者たちは相手にしなかった。ただ武芸のたぐいを行なっていた。このために楯に向かっては親族を相手とすることとなり、悪を好んで罪を得ることになった。この間、邪悪が積もって一身に及ぶようになり、不善のそしりが八州に広まって、ついに阪泉の地に滅んだ炎帝のようになり、永く謀反人の名を残すことになったのである。

 

●残党の掃討

このとき、賊の首領・将門の兄弟や伴類を追捕すべきであるという官符が、去る正月11日に東海道・東山道の諸国に下された。その官符には「もし魁帥(賊の首領)を殺した者には朱・紫の服を着る五位以上に任官し、また副将を斬った者はその勲功にしたがって官職を賜る」とあった。

こうして、詔使・左大将軍・参議兼修理大夫・右衛門督・藤原朝臣忠文、副将軍・刑部大輔・藤原朝臣忠舒らを八州に派遣する間に、賊の首領将門の長兄・将頼と玄茂らは、相模国に至って殺害された。次に興世王は、上総国に至って誅戮された。坂上遂高・藤原玄明らは常陸国で斬られた。

これに続いて、東海道方面追討軍の将軍兼刑部大輔藤原忠舒は、下総権少掾・平公連を押領使として、4月8日に入国、ただちに謀反人の一味を探して討った。そのうち、賊の首領将門の弟七、八人が、髪を剃って深山に入ったり、妻子を置き去りにして山野に逃げまどった。さらに残った者たちは恐れを成して去っていった。

正月11日の官符は四方に広く伝えられた。2月16日の詔使の恩符によって出頭する者もいた。

 

●論功行賞

その間、武蔵介・源経基、常陸大掾・平貞盛、下野押領使・藤原秀郷らは、勲功があったとして褒賞を受けた。そこで、去る3月9日、中務省に奏上して、軍のはかりごとがよく忠節を尽くした旨を述べ、その結果、賊の首を戦陣にあげ、武功を朝廷にもたらした、と言った。

今、介・経基については、始めは虚言を奏上したとはいえ、それがついに事実になったことにより、従五位下に叙した。

掾の貞盛は長年合戦を経てきたにもかかわらず、なかなか勝敗が定まらなかった。ところが秀郷が協力して謀反人の首を斬り、討ったのである。これは、秀郷の老練な計略に力があったからである、として従四位に叙した。

また、貞盛も多年の艱難を経て、今、凶悪な一味を誅殺することができた。これはまさに貞盛が励んだ結果である。それゆえに正五位上に叙することになった。

こうした結果からいえば、将門はあやまって過分の望みを抱いて、水の流れのように死んでこの世を去っていったが、他人に官位を与えることになったわけである。その心には怨みはないだろう。なぜならば、「虎は死して皮を遺し、人は死して名を遺す」というからである。哀れむべきは、我が身を滅ぼしてその後に他人の名を揚げたことだ。

 

●乱後の評価

今、思案してみると、昔は六王の謀叛により七国の災難があった(呉楚七国の乱)が、今、一人の謀叛で八国の騒動を起こした。この分相応な野望のはかりごとを実行したのは、古今にもまれなことである。ましてや本朝では神代以来このようなことはなかった。

このため、将門の妻子は路頭に迷い、臍を噛むような恥を受け、兄弟は行き場を失って身を隠すところもなくなった。

雲のように集まっていた従兵は霞のように散ってしまい、影のように付き従っていた者たちはむなしく途中で滅んでしまった。生き別れとなった親子を捜して山・川に向かう者あり、別れを惜しみながら夫婦がばらばらに逃げのびていく者もあった。鳥でもないのに「四鳥の別れ」をし、木でもないのに「三荊の悲しみ」を抱かせられたのだ。犯した罪科のある者もない者も、同じ道ばたによい香り・悪いにおいの草々が混じって生えるように入り乱れ、濁りのある者もない者も、濁った水と清らかな渭水の二つの川が合流するように入り混じって辛酸をなめた。

雷電の音は百里内外に響きわたるが、将門の悪はすでに千里を超えて知られるようになった。将門は常に夏王朝の大康のような放逸な悪行を好み、周の宣王のような正しい道を踏み外した。こうして不善を一心になし、天位を九重の宮廷と争った。過分の罪によって生前の名声を失い、放逸の報いとして死後に恥を残すこととなったのである。

 

●冥界消息

巷説に「将門は昔からの宿縁によって、東海道下総国豊田郡に住んでいた。しかし、殺生の悪事に忙殺されて、善をなす心がなかった。そのため、寿命に限りがあってついに滅んで没してしまった。どこに逝き、どこに生まれ変わり、だれの家に生まれているのか」といわれている。

これに答えて、田舎のある人がこう伝えている。

「今、三界の国、六道の郡、五趣の郷、八難の村に住んでいる。ただし、中有の使者にことづけてこういう消息を伝えてきた。

『自分は生きていた時に一つの善もなさなかった。この業の報いによって悪趣を廻っている。自分を訴える者は今一万五千人。痛ましいことだ、将門が悪をなしたときには多くの従者を駆りたてて犯したのに、報いを受ける日にはもろもろの罪を被って一人苦しんでいる。身は剣の林の苦しみを受け、肝は鉄囲いの猛火に焼かれる。苦痛があまりにも激しいのは言いようもないほどだ。ただし、一月のうちに一時だけの休みがある。その理由は何かといえば、獄吏が言うには「汝が生きていた時に誓願した金光明経一巻の助けである」という。冥官の暦には、この世の十二年を一年とし、この世の十二月を一月とし、三十日を一日とする、とある。これにあてはめれば、わが日本国の暦では92年にあたり、(金光明経の)本願によってその苦を逃れることができる、という。閻浮提(人間世界)の兄弟、娑婆(苦しみの世界)の妻子たちよ、他に慈しみを施し、悪業を消すために善をなせ。口に甘くとも、生類を殺して食べてはならない。心に惜しいと思ったとしても、進んで仏僧に施して供えなければならない』と。

亡魂の便りは以上のとおりであった」

  天慶三年六月中にこの文を記す。

ある本にいう。「わが日本国の暦では、93年のうちに一時の休みがあるだろう。我が兄弟らよ、この本願を遂げてこの苦を脱させてほしい」と。

こういうことであれば、聞いているところによれば生前の勇猛さは死後の面目とはなっていない。おごり高ぶった報いに、憂いの苦しみを味わうことになる。

一代の仇敵がいて、この敵と角や牙をつきあわせるように戦った。しかし、強い者が勝ち、弱い者が負けた。天下に謀叛があって、日と月のように競い合った。しかし、公がまさり、私は滅した。

およそ世間の理として、苦しんで死ぬとしても戦ってはならない。現世に生きて恥があれば、死後にも名誉はない。とはいえ、この世は「闘諍堅固」といわれる末法の末にあたり、乱悪が盛んである。人々は心に戦いを抱いているが、戦っていないだけだ。

もし思わぬ誤りがあったなら、後世の達識者が書き足してほしい。ここに里の無名の者が謹んで申し上げる。

 

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承平・天慶の乱関連年表
平将門
将門記         10
今昔物語 古事談 源平盛衰記 源平闘諍録
藤原純友
大鏡 今昔物語 古事談
参考リンク

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