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承平・天慶の乱
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将門記 5 貞盛の逃避行 |
●信濃千曲川の戦い この後、掾の貞盛が三度も自分のことを振り返って思うには、「身を立てて徳を修めるには、朝廷に仕える以上のことはない。名誉を損ない、実利を失うのは、悪いことをする以上のことはない。清廉潔白であってもアワビの部屋に泊まれば、生臭い臭気を同じように受けてしまう。しかし、本文に言うとおり、前生の報いとして貧しいことは憂うことではなく、後生に悪名が残るのを悲しむ、という。悪行の満ちる東国の地を巡り歩いていれば、必ず不善の名声があることだろう。イバラで作った門を出て花の都に上り、立身出世するのが一番いい。それだけではなく、一生はほんの隙間のようなものである。千年栄える者は誰もいない。正しい暮らしを進んでおこない、ものを盗む行為をやめるべきだ。いやしくも貞盛は朝廷に仕え、さいわいに司馬(左馬允)の列に加わることができた。それなら朝廷に勤めて成績を重ね、朱紫(四位・五位)の衣をいただこう。そのついでに、快く我が身の愁いなどを奏上することができよう」と。 承平8年春2月中旬に、東山道から上京した。 将門は詳しくこの言葉を聞いて、判類に行った。「讒言するような人の行ないは、自分の上に忠節の人がいることを憎むものである。邪悪の心は、富貴な者が自分の上にいることをねたむものである。これは、蘭の花が咲き誇ろうとしても、秋風がさまたげ、賢人が英明の名を立てようとしても、讒言する者がこれを隠す、というものである。今、例の貞盛は、将門からの恥への復讐が遂げられず、報いようとして忘れることができない。もし都に上京したならば、将門の身を讒言するだろう。貞盛を追いとどめて、踏みにじるのが一番だ」と。そこで100騎あまりの兵を率いて、緊急に追っていった。 2月29日、信濃国小県郡の国分寺のあたりに追いついた。そこで千曲川を挟んで合戦する間に、勝負はつかなかった。そのうち、敵方の上兵・他田(おさだ)真樹が矢に当たって死に、味方の上兵・文屋{ふんや}好立は矢に当たったが生き延びた。貞盛は幸いに天命があって、呂布の鏑を免れて、山の中に逃れ隠れた。将門は何度も残念がって首をかき、むなしく本拠に戻った。 |
●貞盛の逃避行 ここで貞盛は千里の旅の糧食を一時に奪われてしまい、旅空の涙を草にそそいで泣いた。疲れた馬は薄雪をなめつつ国境を越え、飢えた従者は寒風にさらされて憂いつつ上京した。しかし、生き延びる天運に恵まれて、なんとか京都に着いた。そこでたびたびの愁いの内容を記して太政官に奏上し、糾問すべきであるという天皇の裁許を、将門出身国(下総国)に賜った。 去る天慶元年(※2年)6月中旬に、京から在地に下って後、官符をもって糺そうとしたけれども、例の将門はいよいよ悪逆の心を持って、ますます暴悪をなした。そのうちに、介の良兼朝臣、6月上旬に亡くなった。考え沈んでいるうちに、陸奥守平維扶(これすけ)朝臣が同年冬10月に任国に就任しようとするついでに、東山道から下野の国府にたどり着いた。貞盛はその太守と知り合いの間柄だったので、ともに奥州に入ろうと思い、事情を話して聞かせたところ、「わかった」ということであった。 そこで出発しようとしていたうちに将門が隙をうかがって追ってきて、前後の陣を固めて、山狩りをして潜伏している身を探し、野を踏んで足跡を探した。貞盛は天運があって、風のようにすばやく通過し、雲のようにすばやく身を隠す。太守は思い煩って、ついに見捨てて任国に入っていってしまった。 その後、朝には山を家とし、夕には石を枕としなければならなかった。凶悪な賊らのおそれはますます多くなり、非常の疑いも倍増した。ぐずぐずとして国の周辺を離れず、ひそひそと逃げ隠れして山の中から外に出ない。天を仰いで世間の不安な様子を嘆き、地に伏しては我が身一つ持ちこたえられないありさまを嘆き悲しんだ。悲しみ、そして傷む。身を厭うけれども捨てるわけにもいかない。鳥のうるさいのを聞けば、例の敵がほえ立てているのかと疑い、草が動くのを見れば密告者が来たのかと驚く。嘆きながら多くの月日を過ごし、憂えながら日々を送る。しかし、このころは合戦の音もなく、ようやく朝から晩までの不安な心を慰めた。 |
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