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承平・天慶の乱
(平将門・藤原純友)

 
今昔物語集
巻二十五 平将門、発謀叛被誅語第一
 平将門、謀反を起こし誅せられるること
 

今は昔、朱雀院の御時に、東国に平将門というつわものがいた。これは柏原(桓武)天皇の御孫の高望(たかもち)親王という人の子の鎮守府将軍良持(よしもち)という人の子である。将門は常陸・下総の国に住んで、弓矢をもって身の飾りとし、多くの勇猛な兵を集めて伴とし、合戦を業としていた。

はじめ、将門の父・良持の弟に、下総介・良兼という者がいた。将門の父が亡くなった後、この伯父・良兼といささかよからぬことがあって仲が悪くなった。また、亡くなった父の良持の田畑の争いになって、ついに合戦に及んだけれども、良兼はもっぱら道心があって仏法を崇めていたので、合戦を好まなかった。

その後、将門は常にことごとに近親の一族と合戦をし続けていた。多くの人の家を焼いて失わせたり、多くの人の命を殺したりした。このように悪行ばかりを業としていたので、その近隣の国々の多くの民は田畑を作ることも忘れ、公事を勤めるひまもなかった。そのため国々の民はこれを嘆き悲しみ、国司の上申書によって公にこの事情を申し上げたところ、公は聞いて驚き、すみやかに将門を召して訊問するという宣旨を下された。将門は召喚に応じて京にのぼり、自分には過失がない事情を陳情し申し上げた。このときの裁決は「将門に過失はない」ということになって数日で赦免され、本国に帰り下った。

その後、また、それほどせずに合戦が起こり、伯父・良兼、良正、源護(まもる)・源扶(たすく)らと合戦が続いた。また、平貞盛は以前、父の国香を将門に討たれていたので、その仇討ちをしようとして京で公に仕え、左馬允(さまのじょう)になっていたが、奉公の労もすてて急いで下ってきたところ、将門の威勢にはかなうべくもなかったので、本意を遂げることができずに隠れて国にいた。

このようにしばしば合戦をしていたころ、武蔵権守・興世(おきよ)の王という人がいた。これは将門と心を合わせていた者である。正規の国司ではない定員外で、強引に領地に入った。その国の郡司がそのような例はないことを伝えたが、興世王は承諾せず、郡司を戒めた。そこで郡司は隠れた。その間、その国の介である源経基という者がいて、このことを見て密かに京に馳せ上って「将門はすでに武蔵守興世王と共謀して謀叛を起こそうとしています」と公に奏上した。公は聞いて驚き、その事実か否かを訪ねたところ、将門は無実であることを申し上げ、常陸・下総・下野・武蔵・上総五か国の証拠つき上申書を上奏した。公はこれを聞き、かえって将門をよしとした。

その後、また常陸の国に藤原玄明という者がいた。その国の守は藤原維幾であった。玄明は反抗者で、官物を国司から奪っていった。国司は怒って責めたけれども、かなわなかった。そこに玄明は将門に従い、将門と力を合わせて、国司を館から追放した。これによって国司は隠れた。

その間、興世王が将門に述べた。「一国を討ち取ったとしても、その罪は大きい。それならば同じ坂東を押領して、その様子を見ればよろしい」と。将門は「俺が思うところもそれだけである。東八か国から始めて王城をとろうと思う。いやしくも将門は柏原天皇の五世の末孫である。まず諸国の印鎰(国印・国倉の鍵)を奪い取って、受領を京に追い払おう」と答えて、多くの軍を率い、下野国に渡っていった。国庁に着いて、その奪取の儀式を行なった。

このとき、国司・藤原弘雅(ひろまさ)、前国司・大中臣宗行らが館にいた。国を奪おうとする気配を見、まず将門を拝んで、印鎰を捧げて地にひざまずいて授け、逃げた。それから将門は上野の国に行った。そこでは介の藤原尚範(たかのり)の印鎰を奪い、使いを付けて京に追いやった。その後、将門は府を押さえて庁に入った。陣を固めて、諸国の国司任命を行なった。このとき、一人の者が「八幡大菩薩の御使いである」と口走り、「朕の位を蔭子(五位以上の者の子)平将門に授ける。速やかに音楽をもってこれを迎えよ」と言った。将門はこれを聞いて再拝した。多くの兵士たちはみな喜んだ。ここに将門は自ら「新皇」と名乗った。そして公家にこの事情を奏上した。

そのとき、新皇の弟に将平という者がいて、新皇に「帝王の位に至ることは、天が与えるものであります。このことをよくお考えください」と言った。新皇は「自分は弓矢の道に通じている。今の世では戦争に勝った者が君主となるのだ。何をはばかることがあろうか」と言って耳を貸さず、諸国の任命をなした。下野守に弟の将頼、上野守に多治常明、常陸介に藤原玄茂、上総介に興世王、安房守に文屋好立、相模介に平将文、伊豆守に平将武、下総守に平将為らである。その王城を下総国の南の亭に建てることも議論した。また、礒津の橋を京の山崎の橋とし、相馬郡の大井の津を京の大津とした。また、左右の大臣、納言・参議・百官・六弁・八史をみな定めた。内印・外印を鋳る寸法、古文・正文書体を定めた。ただし暦の博士は力が及ばなかった。

そこで諸国の司らはこのことを漏れ聞いて、急いでみな上京した。新皇は武蔵・相模などの国に至るまで廻っていき、みな印鎰を取って、公事を勤めるよう留守の国司らに仰せた。また自分が天位を領すべきことを太政官に奏上した。このとき、公以下みな驚き、宮中は大騒ぎになった。公は「今は仏力を仰ぎ、神明の助けをこうむるべきである」とお思いになって、山々寺々に顕教・密教それそれ多くの祈祷をさせた。また、社々にも命じたのは、おろそかにしないことであった。

その間、新皇は相模国から下総国に帰って、馬の蹄を休めないうちに、残った敵をうち倒すため、多くの兵を引き連れて常陸の国に向かったが、そこにいた藤原氏の者たちは国境にてすばらしい大宴会を開いて新皇を奉った。新皇が「藤原の氏の者たちよ、平貞盛らの居場所を教えよ」と言うと、「彼らの身は、聞いたところでは、浮いた雲のように居場所が定まらないということです」と答えた。

その間、貞盛・護・扶らの妻を捕えた。新皇はこれを聞いて、女を辱めないようにさせようとしたが、それを聞く前に兵らに犯されてしまった。しかし、新皇はこの女たちを赦免して、みな帰してやった。新皇はその場所で日をすごしたが、敵の居場所は聞かなかった。そのため諸国の兵たちをみな帰した。残ったのは1000人足らずである。

ここに貞盛と押領使藤原秀郷らがこれを伝え聞いて、彼らは「公家の恥を助けようと思う」「身命を棄てて合戦しようと思う」と話し合い、秀郷らが多くの兵を連れていったところ、新皇は大いに驚いて兵を引き連れて向かった。そして秀郷の陣とうちあった。秀郷は計略に優れており、新皇の兵をうち破った。貞盛・秀郷らがあとについて追ったところ、追いついた。新皇と相向かって合戦したけれども、兵数がはるかに劣っていたため、「逃げて敵らをおびきよせよう」と考え、幸島の来たに隠れていたところ、貞盛は新皇の家から始めて、その従者たちの家などすべて焼き払った。

そうして新皇が常に連れていた兵8000余がまだ集まらず、わずかに兵400人余りを連れて、幸島の北山に陣を張って待ちかまえた。貞盛・秀郷らが追っていって合戦したところ、はじめは新皇が順風を得て貞盛・秀郷らの兵を打ち返したが、後には貞盛・秀郷らが逆に順風を得た。身命を惜しまず合戦する。新皇は駿馬を駆って自ら戦っていたところ、天罰があって、馬も走らず、戦術もわからなくなって、ついに矢に当たって野の中で死んだ。貞盛・秀郷らは喜びながら、猛兵に首を切らせた。そして下野国から公文書をそえて首を献上した。新皇は名誉を失い、命を滅ぼしたが、それは、かの興世王らの謀議のせいである。

朝廷はこのことを喜び、将門の兄弟や従者らを追捕すべき官符を、東海・東山の諸国に下された。また「この従者らを殺した者には賞を賜う」と。大将軍参議兼修理大夫右衛門督藤原忠文をつけ、将軍の刑部大輔藤原忠舒らを添えて八か国に遣わす間に、将門の兄・将俊や玄茂らが相模国で殺された。興世王は上総国で殺された。坂上遂高・藤原玄明らは常陸国で殺された。また、謀叛の輩を探して討つ間に、将門の弟七、八人は、剃髪して深い山に入ったり、妻子を棄てて山野に迷ったりした。

この間、経基、貞盛、秀郷らに賞を賜う。経基を従五位下に叙す。秀郷を従四位下に叙す。貞盛を従五位上に叙す。

その後、将門がある人の夢に告げて言うには「自分は生きていた時にはまったく善をなさず、悪をなした。この業によって一人、耐えがたい苦を受けている」と告げた、と語り伝えたのである。

 

今昔物語集
平安末期の説話集。31巻,内3巻を欠く。作者,成立事情に定説はないが,宇治大納言源隆国〔1004〜1077〕に関係があるとする説もある。天竺,震旦,本朝の三部に大別して千余編を収める。俗語をまじえた自由な和漢混淆文で書かれ,取材範囲も広く,登場人物も貴族,僧,武士,農民,医師,遊女,盗賊,乞食から,鳥獣,妖怪変化にまで及んでいる。短編小説としてもすぐれた特質を備えており,近代の作家が多くこの集に取材している。

この将門説話に関しては、ほとんど将門記からとっている。

新日本古典文学大系36 今昔物語集 4 岩波書店の原文を現代語訳した。

 

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大鏡 今昔物語 古事談
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