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承平・天慶の乱
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古事談 巻四ノ三〜九 |
308 貞盛、将門の謀叛を予言しける事(巻四ノ三) 仁和寺式部卿宮(敦実親王)の御許に将門が参入した。郎等五、六人を連れていた、という。御門を出るとき、貞盛がまた参入した。郎等を連れていなかった。そこで御前に参って「今日は郎等を連れていませんでした。もっとも口惜しいことです。郎等がありましたら、今日殺していたことでしょう。この将門は天下に大事を引き出すことになる者です」と申し上げた。 309 東八箇国領せる将門、忠平公へ献状の事(巻四ノ四) 将門の逆乱は、天慶2年11月に始めて披露という。東八か国を領し、印鎰(国印・国倉の鍵)を奪い、国司を任じ、すべて除目を行ない、大臣以下の文武百官をみな点定した。ただし、欠けていたのは暦博士だけであった。また、書状を太政大臣のもとに献じた。その状にはこうあった。
310 浄蔵、将門を調伏しける事(巻四ノ五) 同3年正月22日、善相公(三善清行)の子息、定額僧沙門(定額寺の加持祈祷僧)である浄蔵が、将門を降伏するため、延暦寺楞厳院にて三七日(21日間)大威徳法を修した。その間、将門が弓矢を帯びてうつつに火をともす皿に立った。例の僧の弟子らはそれを見て怪しんだ。また、鏑の音が壇の中から出て、東を指して去っていった。ここに浄蔵は「将門が降伏されたことがわかった」と言った。 また公家が大仁王会を行なったとき、浄蔵は待賢門の導師であった。この日、京洛は騒動して「今、将門の兵が入洛した」と言っていた。そこで浄蔵は「将門の首が今持ってこられるのである」と言った。気を失いかけていた宮人たちは、この言葉を聞いてたちまち元気になった。そして、その言葉のとおりとなった。 311 忠文等、坂東へ発遣の事ならびに秀郷・貞盛、将門と合戦の事(巻四ノ六) 2月8日、天皇は南殿に出御なされた。征夷大将軍右衛門督・藤原忠文に節刀を賜い、坂東の国に下し遣わした。このとき、参議・修理大夫兼右衛門督・忠文を大将軍とし、刑部大輔・藤原忠舒、右京亮・藤原国幹、大監物・平清基、散位・源就国、源経基らを副将軍とした。2月1日、下野の押領使・藤原秀郷、常陸掾・平貞盛ら4000余人の兵(あるいは一万という)を率い、下野国において将門と合戦している間、将門の陣はすでにうち負かされていた。三兵の手に迷い、身を四方に逃れて、矢に当たって死んだ者は数百人であった。 312 将門、下総国にて討たれし事ならびに勧賞の沙汰の事(巻四ノ七) 同13日、貞盛・秀郷らは下総国に至り、将門を攻め襲った。しかし、将門は兵を率いて嶋広山に隠れたので、将門の館をはじめとして士卒の宅に至るまでみなことごとく焼き回った。 同14日の未の刻、同国において貞盛、為憲、秀郷ら、身を棄て命を忘れて馳せ向かい、射合わせた。ときに風飛の歩みを忘れ、梨老の術を失い、貞盛の矢に当たって落馬した。秀郷はその場所に馳せ至って、将門の首を斬って士卒に渡した。貞盛は下馬して秀郷の前に至った(合戦章には、うつつに天罰を被り、神鏑に当たるとある)。その日、将門の従者の射殺された物は190人とか。 将門を誅した勧賞に、藤原秀郷を従四位下に叙し、かねて功田を賜い、永く子孫に伝えさせ、さらに追って兼ねて下野・武蔵両国の守に任じた。平貞盛を従五位上に叙し、右馬助に任ず。経基を従五位下に叙し、兼ねて太宰大弐に任ず。 314 忠文、勧賞の沙汰に立腹の事(巻四ノ九) 忠文卿は勧賞の沙汰のとき、小野宮殿(藤原実頼)が「疑わしきを賞するなかれ」と定め申されたため、賞を行なわれなかったという。そのとき九条殿(藤原師輔)が「刑の疑わしいものを賞するなかれ、賞の疑わしいものは許せ、ということです」と申されたが、遂に賞が行なわれなかったという。このことばを申し上げたために、後日、忠文が土地家屋の証文を差し上げたという。
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古事談 書状の部分は将門記と共通(後半)。その他、史実に近いと思われるエピソードが追加されている。 現代思潮社版の原文を現代語訳した。 |
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