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承平・天慶の乱
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源平盛衰記 |
巻第二十二
俵藤太、将門中違ふ事 昔、将門が東8か国を討ち平らげて、凶賊を集め、王城へ攻め入ろうとしていた。平将軍貞盛は、勅宣をこうむって下向した。下野国の住人・俵藤太秀郷は名高きつわもので勢力を有する者であったが、将門と心を合わせて朝廷を傾け、日本国をともに領有しようと思って出かけていったという。将門はちょうど髪を乱してくしけずっていたところだったが、あまりに喜んで、とるものもとりあえず、結髪していない頭を露出したまま、下着の白衣であわてて出てきて、いろいろもてなすことを言うので、秀郷は鋭く見抜いて、「この人の性質は軽率である。とうてい日本の主とはなれない」と考えて、初対面で心変わりした。その上、俵藤太をもてなすため、酒食をととのえて進めた。将門が食べていた食事が袴の上に落ち散らばったのを、自分で払いのけた。「これは民の振る舞いである。いいようもない」と心の底でうとましく思い、後には貞盛に同意して秀郷のはかりごとによって将門を滅ぼした。 巻第二十三 貞盛・将門合戦 附 勧賞の事 下野国の住人の俵藤太秀郷は、将門追討の使いが下ってくることを聞いて、平新王に加勢しようとおもって行ったのだが、大将軍の相がないと見てうとみ、将門を主人とすると偽って本国に帰り、貞盛を待ち受けて相従って下っていった。承平3年2月13日、貞盛麾下の官兵が将門の館へ向かっていった。将門は下総国幸島郡北山というところに陣を構えた。その勢はわずかに4000余騎。同14日未の時に、矢合わせして散々に戦った。官兵は凶徒に撃ち返されて、死者80余人、傷を受けた者は数知れず。貞盛・秀郷らが退却するときには2900人の官軍が失われていた。将門が勝ちに乗じて攻め戦うとき、貞盛・秀郷らは精兵200余人をそろえ、身命を棄てて返し、合戦した。ここに将門は自ら甲冑をつけ、駿馬を駆って先陣に進んで戦っていたところ、王事はもろくなく、天罰がてきめんに顕われて、馬は風飛のような歩みを忘れ、人は李老のような戦術を失った。その上、法性坊調伏の祈誓にこたえて、神鏑が頭に当たって、将門はついに滅んだ。 同4月25日、将門の首が都へ上った。大路を渡して、左の獄門の木に懸けられた。哀れなことよ、昨日は東夷の新王とかしずかれて威力をふるい、今日は皇居に逆賊として恥をさらされるとは。徳を貪り公に背いたのは、あたかも威力をたのんで鉾を踏む虎のようである、という文章もある。最も慎むべきことである。貞盛はまた珍しいことに逃れることができた。たとえば馬の前のまぐさが野原に残り、まないたの上の魚が海に帰ることができたというくらいのものである。帝運による必然というものの、武芸によく秀でていたものと思われる。将門の弟・将頼と常陸介藤原玄茂は相模国で討たれた。武蔵権守興世は上総国で誅せられた。坂上近高・藤原玄明は常陸国で斬られた。従者・与党は多かったが、妻子を棄てて入道出家して山林に迷った。 将門追討の勧賞が行なわれた。左大臣実頼(さねより=小野宮殿)、右大臣師輔(もろすけ=九条殿)以下、公卿殿上人が陣の座に列した。大将軍貞盛は上平太であったが、正五位上に叙して平将軍の宣旨をこうむった。藤原秀郷は、従四位下に叙して、武蔵・下野両国の押領使を賜り、右馬助源経基は従五位下に叙して太宰少弐に任じた。次に副将軍忠文卿の勧賞のことが問題になったところ、小野宮殿が「今回の合戦はひとえに大将軍の忠にある。副将軍は功がないようなものである。恩賞はたやすく与えるべきではない」といった。しかし九条殿が「兵を選んで賊を誅することについては、大将軍も副将軍もともに詔命によって敵陣に向かった。大将軍が先陣で勇んだのは、後陣の副将軍の勢いをたのみにしたからである。副将軍が後陣に控えていたことは、大将軍の進退を守ったのであるから、ともに互角である。どうして朝恩がなくていいということがあろうか。大将軍ほどの賞でなくとも、それなりの勲功があるべきだろう」と重ね重ね奏上されたので、小野宮殿は「そういう勧賞は残念である。忠による禄でなければならない」と固く諫めた。そのため、民部卿はついに賞に漏れてしまった。 忠文神と祝ふ 附 追討使門出の事 ここに忠文は大きな怨みを感じて、面目なく内裏をまかり出ていったが、天にも響き地も崩れるほどの大声を放って「悔しいことだ。同じように勅命を受けて、同じように朝敵を平らげた。一人は賞にあずかり、一人は恩に漏れる。小野宮殿のはからい、生々世々忘れるまい。その家門は衰退し、その末葉の人は、永く九条殿のご子孫の奴隷となれ」と、太高らかにののしり、手を打って拳を握ったところ、左右の八つの爪が手の甲に突き刺さり、血が流れ出たので、紅を絞ったようであった。その後宿所に帰り、食事を絶ち、怨んで死んだ。悪霊となって様々なおそろしいことがあったので、怨霊をなだめようとして、忠文を神として祝った。宇治の離宮大明神というのはこれである。その怨みが通ったのだろうか。小野宮殿の子孫は絶えてしまったようだ。残っている人も、みな必ず九条殿の奴隷となった。九条殿は一言の情けによって、摂政関白が今も絶えることがない。 |
源平盛衰記 忠文が賞にあずかれず、不満を持ったというのは古事談と共通の挿話。 新定 源平盛衰記 新人物往来社の原文を現代語訳した。これは関係のある部分だけの抜粋訳である。 |
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