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承平・天慶の乱
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将門記 3 良兼との戦い |
●反将門の軍兵が結集 しかし、会稽の恥をすすぐ思いが深いため、まだ敵対心を発する。そのため兵力不足の由を記して長兄・下総介良兼に文書を奉った。その文書には「雷電が響きを起こすのは、風雨の助けによるものであり、おおとりが雲をしのいで飛ぶのは、その羽の力によるものです。願わくば協力を仰いで、将門の乱悪を鎮めましょう。そうすれば国内の騒ぎは自ずから鎮まり、上下の動きも必ず鎮まるでしょう」とあった。 下総介良兼は口を開いて、「昔の悪王も父を殺害する罪を犯したのだ。今の状況で、どうして甥の将門を強くするような過ちを我慢できようか。弟の言うことはもっともだ。その理由は、姻戚の護の掾に近年愁えることがあったからだ。いやしくも良兼はその姻戚の長である。どうして力を与える心がなかろうか。早く武器を整え、密かに待つべきだ」と言った。良正は龍が水を得たように心が励まされ、前漢の武将・李陵のように戦意を燃やす。 これを聞いて、先の(川曲村の)合戦で射られた者は、傷を治してやってきたし、その戦で逃れた者は、楯を繕って集まった。 こうしているうちに、下総介良兼は兵を整えて陣を張り、承平6年6月26日をもって、常陸国を指して雲のように兵が集まってきた。上総・下総は禁圧を加えたけれども、親戚を訪ねるのだと称して集まる者が多く、あちこちの関所を通らず、上総国武射郡の小道から、下総国香取郡の神崎にたどり着いた。その渡しから常陸国信太郡[艸+奇]前(えさき)津に着き、その翌日の早朝、同国水守(みもり)の営所に着いた。 |
●下野国庁付近の戦い この夜明けに、良正が参上して将門の不審な点について述べる。そのついでに、貞盛は昔なじみの思いから、下総介良兼に対面した。介は、「聞いたとおりであれば、私に身を寄せている貞盛は将門と親密な関係である。ということであれば、これは武士らしからぬ者である。兵は名誉を第一とする。どうしていくらかの財物を奪い取って我がものとされ、いくらかの親類を殺害されたからといって、その敵にこびへつらうことがあろうか。今、ともに協力を得て、是非を定めるべきである」と言う。貞盛は人の言葉に乗せられやすいため、本意ではなかったけれども、暗に同類となり、下毛野国を指して、大地をとどろかせ、草木をなびかせ、一列に出発した。 ここに将門は緊急の知らせがあったので、それが本当かどうかを確かめるために、ただ百余騎を率いて、同年10月26日(正しくは7月26日)に下毛野国の国境に向かった。実状を見ると、例の敵は数千ほどある。おおよそ良兼方の陣の様子を見ると、あえて敵対できそうにない。その理由はなぜかといえば、下総介はいまだ戦いによって消耗しておらず、兵・馬はよく肥えていて、武器もよく備わっているからである。将門はたびたび敵に痛めつけられていて、武器はすでに乏しく、兵力も手薄である。敵はこれを見て、垣のように楯を築き、切り込むように攻めてきた。将門はまだ敵軍が攻めてこないうちに先手を打って歩兵で急襲し、だいたいの戦いの決着をつけさせて、射取った騎兵は80余りであった。下総介は大いに驚き、おびえて、みな楯を引いて逃れていった。 将門は鞭を上げ、名乗りを上げて追討したが、そのとき、敵はどうしようもなくなって、国府の中に籠城した。ここで将門が思うには、「まことに毎晩の夢に見る敵であるといえども、血筋をたどれば遠くはなく、家系をたどれば骨肉の親族である。夫婦は瓦が水を漏らさないように親密だが、親戚は葦葺きが水を漏らすように疎遠であるというたとえもある。もし思い切って殺害すれば、遠近から非難の声も起こるのではないか。だからあの下総介一人の身を逃そう」と考えて、すぐに国庁西方の陣を開いて、下総介を逃れさせたついでに、千人余りの兵がみな鷹の前の雉のように命を助けられ、急に籠を出た鳥のように喜んだ。 その日、例の下総介の無道の合戦の事情を在地に触れ知らせるとともに、国庁の記録に記しとどめた。その翌日、将門の本拠地に帰った。これ以降、特別のことはなかった。 |
●将門、恩赦に遭う そうこうしているうち、前大掾・源護の訴状により、その護と犯人・平将門と平真樹らを召し進めるべき由の官符、去る承平5年12月29日の符が、同6年9月7日に到来したが、これは左近衛の番長・正六位の上・英保純行(あなほのすみゆき)、英保氏立、宇自加支興らを使者として、常陸・下野・下総などの国に派遣されたものである。 そのため将門は原告より先に同年10月17日急いで上京し、すぐに朝廷に参内して、つぶさに事のよしを奏上した。幸いに天皇の判決をこうむり、検非違使に捕らえ調べられるうち、理路整然と語ることには長けていなかったものの、神仏の感応があって、ことを論ずるに理がかなっていた。天皇のお恵みがあった上に、百官の恩顧があって、犯した罪も軽く、罪過も重くなかった。かえって武勇の名声を畿内に広め、京中に面目を施した。 京都滞在中に天皇の大いなる徳にて詔が下され、暦が改められた。〔承平八年を天慶元年としたことをいう〕ゆえに、松の緑の色は千年もの恒久の繁栄をことほぐかのように輝きを増し、蓮の糸は十種の善の蔓を結ぶ。今や、多くの人民の担った重い負担は、大赦令によって軽減され、八つの重罪は、犯人から浅くされる。将門は幸いにこの仁風に遭って、承平7年4月7日の恩赦によって、罪に軽重なく、喜びのえくぼを春の花のように浮かべ、郷里に帰ることを五月になって許された。かたじけなくも、燕丹のように辞して、嶋子のように故郷に帰る〔昔、燕の王子・丹は秦の始皇帝に人質となっていたが、長年過ごした後、燕は暇を請うて故郷に帰ろうとした。始皇帝は、烏の首が白く、馬に角が生じたときには帰ることを認めよう、と言った。燕丹が嘆いて天を仰ぐと、烏はこのために首が白くなり、地に伏すと、馬はこのために角を生じた。始皇帝は大いに驚き、帰るのを許した。また、嶋子(浦島太郎)は幸いに常楽の国に入ったけれども、故郷の廃墟に帰った。それゆえ、この句がある〕。北方産の馬は北風が吹くといななき、南方産の鳥は南向きの枝に巣を作るという。ましてや、人間であれば信条として、どうして故郷を懐かしむ心がないはずがあろうか。 |
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