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承平・天慶の乱
(平将門・藤原純友)

 
古事談
 
巻四ノ一〇
 

315 純友が逆乱の顛末の事(巻四ノ一〇)

天慶3年11月22日、勅があって、内供奉十禅師・明達を遣わし、摂津国住吉の神宮寺において、西海の凶賊・藤原純友を鎮めるために、二七日(14日間)、毘沙門天の調伏の法を修させた。20人の伴僧を引率した。すると、海賊純友らはついに捕縛された。

『純友追討記』にいう。伊予掾・藤原純友、かの国に居住して海賊の首であった。ただ生まれつきの性格が狼戻であり、礼法にこだわらず、多く人を率いて、いつも南海・山陽の国々に行き、乱暴狼藉を常としていた。暴悪な者のなかには、その威力の猛々しいことを聞き、追従する者もやや多かった。官物を押し取り、官舎を焼き、これを朝・暮の勤めとしていた。はるかに将門の謀叛のことを聞いて、ただちに逆乱を企て、上道しようとした。このころ、東西二京は連夜火を放たれた。このため、男は水を屋上に送り、女は水を庭の中に運んだ。純友の士卒が京洛に入ってなしたことであるという。

ここに備前介・藤原子高がこのことを聞いて、その旨を上奏するため、12月下旬、妻子をつれて陸路から上道した。純友はこれを聞いて、子高を害するために郎等の藤原文元らに、摂津国兎原郡須岐駅に追わせた。〔同12月26日壬戌、寅の刻、純友の郎等の〕文元らが雨のように矢を放って、ついに子高を捕えた。すぐに耳を切り、鼻をそぎ、妻を奪って去っていった。子息らは賊のために殺されてしまった。公家は大いに驚き、固関使を諸国に下す一方で、純友に厳密の官符を賜って栄爵を与え、従五位下に叙した。

しかし、純友の野心はいまだ改まらず、猥賊はいよいよ倍増した。讃岐国はその賊軍と合戦して大破し、矢に当たって死んだ者は数百人。介・藤原国風はいくさに敗れ、警固使・坂上敏基を招いてひそかに阿波国に逃げ向かった。純友は国府に入り、放火して焼き払い、公私の財物を取った。介・国風はさらに淡路国に向かい、つぶさに状況を説明し、飛駅をもって伝えさせた。二カ月を経て武勇の人を招集して讃岐国に帰り、官軍の到来を待った。

ときに公家は追捕使を遣わした。左近衛少将・小野好古を長官とし、源経基を次官とし、右衛門尉・藤原慶幸を判官とし、左衛門志・大蔵春実を主典として、播磨・讃岐二か国に向かい、200隻余の船を造って、賊地伊予国を指して向かった。ここにおいて純友は、蓄えている船が1500隻という。

官使がまだ到着する前に、純友の次将・藤原恒利が賊陣を脱してひそかに逃げてきて、国風のところに着いた。その恒利は賊徒の宿所・隠れ家、海陸両道の通行の詳細を知っている者であった。そこで国風は直ちに案内役にして、勇敢な者を添えて賊を討たせた。大敗して散る様子は、葉が海上に浮かぶようであった。一方では陸路をふさいで通り道を絶ち、一方では海上に追って、停泊場所を見れば風波の難に遭わせ、ともに賊の行き場を断った。

そうして進んでいって、賊徒は太宰府に至った。官吏が準備していた兵隊は、壁を出て防戦したが、賊に敗れた。このとき、賊は太宰府累代の財物を奪い取り、火を放って府を焼き払った。

賊がこのように略奪しているあいだに、官使・好古は武勇の者を率いて陸地から向かい、慶幸・春実らは海上から筑前国博多津に赴いた。賊は待ち受けて戦い、一挙に死生を決しようとした。春実は戦いたけなわのとき、肩脱ぎをして刀剣を取り、一人呼びながら賊の中に入っていった。恒利・遠方らもまた従っていき、遂に入って多くの賊を斬った。賊陣はさらに船に乗って戦った。このとき、官軍は賊船に入って火をつけ、船を焼いた。凶党はついに敗れ、ことごとく殺された。

奪った賊船は800隻余り、矢に当たって死傷した者は数百人、官軍の威力を恐れて海に入った男女は数え切れない。賊徒の主従はともに離散し、滅ぶ者あり、投降する者あり、雲のように散っていった。純友は小船に乗って伊予国に逃げ帰ったが、警固使・橘遠保のために捕えられた。次将らもみな国々所々で捕えられた。純友は捕えられたためにその身を禁固していたが、獄中で死んだ。

 

古事談
鎌倉初期の説話集。6巻。源顕兼著。1212〜15年ごろ成立。王道后宮,臣節,僧行,勇士,神社仏寺,亭宅諸道の6巻に分け説話を記す。種々の先行書からの抄出で文体も不統一。<江談抄>の影響が強い。1219年成立の<続古事談>も構成内容はほぼ同じ 。

将門の話の続き。史実にかなり忠実と思われる記述。

現代思潮社版の原文を現代語訳した。

 

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承平・天慶の乱関連年表
平将門
将門記         10
今昔物語 古事談 源平盛衰記 源平闘諍録
藤原純友
大鏡 今昔物語 古事談
参考リンク

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