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承平・天慶の乱
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将門記 7 常陸・下野攻略 |
●藤原玄明の乱行 その間、常陸国に居住する藤原玄明(くろあき)らは、もともと国の秩序を乱す人であり、民の毒害であった。収穫期には一町以上の広い土地の収穫物を掠奪し、公の租税については少しも納入しない。ことあるごとに、徴税のために派遣された国の役人が来れば責め立て、弱い一般民衆の身を脅かしたり連れ去ったりする。その行いは蝦夷よりひどく、その考え方を聞けば盗賊そのものである。 時に、長官(常陸介)藤原維幾朝臣が、公のものを納入させるためにたびたび公文書を送ったが、対抗して拒絶するばかりで、府に出頭しようとしない。公に背いて勝手に非道を行ない、私腹を肥やして国内各所に乱暴を働いた。 長官は度重なる玄明の罪過を記し集め、太政官符の趣旨によって追捕しようとしたところ、急に妻子を引き連れて下総国豊田郡に逃れたが、そのついでに行方(なめかた)郡・河内郡の不動倉(非常用倉庫)の保存用の稲を盗んでいった、と、その地の郡司の日記にある。 さて、玄明を捕らえて送れという趣旨の移牒を、常陸国から下総国ならびに将門に送ってきた。しかし、将門は、すでに逃げてしまったと称して、捕らえて渡すつもりがなかった。そもそも、国のために宿世の仇敵となったのであり、郡のために暴悪の行いをしたのだ。玄明は変わるところなく街道を行き来する人の荷物を奪って、妻子の暮らしをうるおし、常に人民の財産を掠めて、従者たちを喜ばせたのであった。 将門はもとから世にはぐれた人を救って意気を上げ、頼るところのない者を庇護して力を貸してやってきた。そんなところへ玄明らは、かの介の維幾朝臣のためにいつも道理に反する心を抱き、蛇の猛毒を含んでいた。あるときは身を隠して誅殺しようと思い、あるときは実力を行使して合戦を挑もうとした。玄明は試しにこのことを将門に話してみた。すると、力を合わせるような様子があった。そこでますますほしいままに猛々しく振る舞い、すべてをあげて、全力で合戦の手配をし、内々の打ち合わせも終わらせた。 |
●常陸国衙攻略 国内の武器を集め、国外から兵士を徴発した。天慶2年11月21日、常陸国に渡った。国はかねてから警固を備えて、将門を待っていた。将門が宣告するには、「例の玄明らを常陸国内に住まわせて、追捕してはならないという文書を国衙に奉る」という。しかし、承諾せず、合戦するという内容の返事が送られてきた。そうして互いに合戦するうちに、国の軍は3000人、すべて討ち取られてしまった。将門に従う兵はわずかに1000人余り、国府の町を包囲して、東西に行き来させなかった。長官は将門の契約に従い、詔書を都から持ってきていた使いも自ら罪に服して首を垂れてかしこまっていた。 世間の綾織りの布や薄地の絹は、雲のように多くを人民に施し与え、すばらしく珍しい宝物は算木を散らしたように散りばめて分配した。1万5000もの膨大な絹布はまわりもののごとくばらまかれ、300あまりの民家は滅んで一瞬の煙になってしまった。屏風に描かれた西施のような美女は急に裸体にひきむかれ、国府に住む僧侶・一般人はひどい目にあい、殺害されそうになった。金銀を彫った鞍、瑠璃をちりばめた箱は幾千、幾万だろうか。家々のわずかのたくわえ、わずかの珍しい財宝は、だれが取って持っていってしまったかわからない。国家公認の僧尼は一時の命を下級兵に請い、わずかに残っていた役人や女たちは生き恥を受けた。かわいそうに、介は悲しみの涙を緋色の衣のすそでぬぐい、かなしいことに、国衙の役人は両膝を泥のうえに屈してひざまずかされた。まさに今、乱悪の日、太陽が西に傾き、乱れきった翌日の朝、印鎰(いんやく。国印・国倉の鍵)を奪われた。こうして、長官(介)・詔使を追い立て、付き従わせることが終わってしまった。役所に勤める人々は、嘆き悲しんで役所の建物に取り残され、従者たちは主人を失って道路のわきでうろうろしている。 29日になって、豊田郡鎌輪の宿に戻った。長官・詔使を一つの家に住まわせたが、いたわりをかけたけれども、夜も寝られず、食も進まない様子であった。 |
●板東八国虜掠の会議 このとき、武蔵権守の興世王が密かに将門に相談するには「事情を見るなら、一国を討ったとしても国家のとがめは軽くない。同じことなら板東の地をかすめ取って、しばらく様子をうかがおう」という。将門は答えて「将門が思うことはこのことだけだ。その理由は何かといえば、昔、斑足王子は天位に登ろうとして、まず千王の首を斬った。ある太子は父の位を奪おうとして、父を七重の獄に入れた。いやしくも将門は桓武天皇の裔である。同じことなら八国から始めて、京都の都城もかすめ取ろうと思う。今はまず諸国の印鎰を奪い、受領(国守)のいる限りすべて都に追い払ってしまおう。それならば、八国を手に入れる一方で、多くの人民を手なずけることができよう」というので、重大な謀議が終わった。 |
●下野国衙攻略 また数千の兵を率いて、天慶2年12月11日、まず下野国に渡った。各々が龍のような馬に乗っており、みな雲のような従者を率いていた。鞭を上げ、蹄を動かして、まさに万里の山を越えようというところ。みな心ははやり、高ぶって、十万の軍にも勝ちそうだった。国衙に到着して、その儀式を行なった。このとき、新しい国司の藤原公雅・前の国司の大中臣全行朝臣らは、かねてから将門が下野国を奪おうとしている様子を見て、まず将門を再拝し、印鎰を捧げ、地にひざまずいて授けた。 このような騒動の間に、館内も国府の周辺もすべて領有された。強くてよくできる使者を送って、長官を都に追わせた。長官が言うには「天人には五衰あり、人には八苦がある。今日苦しみに遭ったとして、どうしようもないことだ。時は改まり、世は変化して、天地は道を失う。善は伏せ、悪は起こり、神も仏もない時代になっている。ああ、悲しいことだ。時もあまり経っていないのに西の朝廷に帰らねばならず、占いの亀甲がまだ使われずに新しいのに東国から去らねばならない〔下野守の任期中にこのような愁いにしずまねばならないことを言っている〕。御簾の中にいた子供や女は、車を捨てて霜の中の道を歩かねばならず、館の外に済んでいた従者たちは、馬の鞍を離れて雪の坂に向かう。治世の初めには朋友の交わりが固く、任期中の盛りには爪を弾いて嘆息する。4度の公文書を取られてむなしく公家に帰り、国司任期中の俸禄を奪われて、暗澹たる旅に疲れてしまう。国内の役人や人民は眉をひそめて涙を流し、国外の役人の妻女は声を挙げてあわれんだ。昨日は他人の不幸と思って聞いていたが、今日は自らの恥となる。だいたいの様子を見ると、天下の騒動、世間のおとろえはこれに勝るものはない」と。嘆き繰り言を言う間に、東山道から追い上げることは終わった。 |
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