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承平・天慶の乱
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将門記 6 武蔵国の争い |
●武蔵国国郡司の戦い そんななか、去る承平8年2月中に、武蔵権守の興世王・介の源常基と、足立郡の郡司判官・武蔵武芝とが互いに相手の政治が悪いということについて争った。 聞いたところによれば、「国司は無道を常のこととし、郡司は理にかなった正しい行いをして、それを自分のよりどころとしていた。なぜならば、たとえば郡司武芝は公務を怠りなく励み勤めており、誉れあってそしられることはない。いやしくも武芝の治郡の名声は広く武蔵国中に聞こえ、民を慈しみ育てる方策は広く民衆に行き渡っていた。代々の国司は、郡内からの納税が欠けているなどわざわざ求めようとはせず、その時々の国司は納期の遅れについてどがめだてしなかった。ところが、例の権守は、正式任命の国司がまだ着任しないうちにむりに国内の諸郡に入ろうとした」という。 武芝が事情を調べたところ、「この国は前例として正式の着任以前に権官が入ってくるということはない」という。 国司は郡司が無礼だと言って思うままに武力を行使し、押し入ってきた。武芝は国司の公の権力を恐れたため、しばらく山野に隠れた。思ったとおり武芝のところの屋敷や近くの民家を襲ってきて、底をさらうように掠奪していき、残った家は封印して捨て去った。 例の守・介の行いを見るなら、主人は暴君として有名な仲和のような行ないをし〔『華陽国志』にいう。仲和は太守として、課税を重くし、財を貪り、国内から搾取した〕、従者は野蛮な心を抱いた。主は、箸で肉をつつくように、申し合わせて、骨を破り、膏を取り出すようなくわだてをし、従者は、アリのように、手を分けて財を盗み隠して運ぶ思いに専念した。国内のしぼみ衰える様子を見るに、平民を消耗させてしまう。 さて、国の書記官らは、越後国の前例どおり、新たに悔い改めることを求める書を一巻作り、役所の前に落としておいた。これらのことはみなこの国・郡のあいだではよく知れ渡ったことであった。武芝はすでに郡司の職についていたけれども、もともと公のものを私物化したという噂もなく、掠奪された私物を返し受けることを文書によって上申した。ところが、これをただすような行政はなく、国司はひたすら合戦しようという姿勢を見せたのである。 |
●将門、武蔵国の争いに介入する そのとき将門が急にこの事情を聞いて従者に、「かの武芝らは私の近い親族ではない。また、かの守・介は、わが兄弟の血縁ではない。しかし、彼らの争いを鎮めるために、武蔵国に向かおうと思う」と言った。そして、自分の兵を率いて、武芝のいる野原に到着した。 武芝は「例の権守ならびに介らは、ただひたすら軍兵を整備して、みな妻子を連れて比企郡狭服山に登っている」と言った。将門と武芝はともに国府を指して出発した。 このとき、権守・興世王がまず出発して国府の役所に出た。介の経基はまだ山の中から離れなかった。将門が興世王と武芝との和議を成立させようとして、おのおの酒杯を傾けて、お互いに歓談した。その間に、武芝の後陣は、特に理由なく、経基の営所を囲んでしまった。介の経基はまだ兵の道に慣れておらず、驚いて散り散りになったということがたちまち府中に伝わった。そこで将門が乱悪を鎮めようと思った意図は、食い違ってしまった。興世王は国府にとどまり、将門らは本拠地に戻った。 ここに経基が心中思うには、「権守と将門とは、郡司武芝にそそのかされて、経基を討伐しようとしたのだ」という疑いを抱いて、深い怨みを持って京都に逃れていった。さて、興世王・将門らへの怨みをはらすために、虚言を心の中に作って、謀叛の由を太政官に奏上した。これについて、京の中は大いに驚き、御所の内も都の中も騒々しくなった。 ここに将門が私淑していた太政大臣(藤原忠平)家は、事実かどうかを明らかにせよとの命令文書で、天慶2年3月25日に、中宮少進多治真人助真のところに寄せて下された状が、同月28日に将門に届けられたという。さて将門は常陸・下総・下毛野・武蔵・上毛野五か国の解文(公文書)を取って、謀叛は無実であるとの由、同年5月2日に申し上げた。 その間、介の良兼朝臣は六月中旬、病の床に伏しながら、髪を剃って出家した上で亡くなってしまった。その後はとりたてて言うべきこともない。 そのころ、武蔵権守の興世王と新しい国司の百済貞連とは不和であった。姻戚関係でありながら、国衙の会議に列席しない。興世王は世を怨んで下総国に身を寄せた。そもそも諸国の考課基準である善を記した文書によって、将門に考課があるべきだとの由が宮中で議論された。幸いに恵み・恩恵を国内に受けて、それによって威勢を他の国にも広げることができるであろう。 |
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