叛乱オンライン
HOME > Terrorist

世界のテロ組織と対テロ組織
Terrorist & Counter-Terrorism

 

オサマ・ビン・ラディン情報

Osama (Usama) bin Ladin(Laden)
 

英国オブザーバー紙の記事より。

 

●アメリカの第1の標的:オサマ・ビン・ラディン

攻撃:サウジアラビアの億万長者、タリバーンの英雄は、キャンプから無傷で逃れ、イスラマバードのスザンヌ・ゴールデンバーグに手紙を書いた

1998年8月21日金曜日

空爆の標的とされたサウジの億万長者、オサマ・ビン・ラディンは、ジェット機が東アフガニスタンの不毛の丘にある彼の訓練キャンプを攻撃したとき、ワシントンの怒りの攻撃から、傷つくことなく逃れた。

ビン・ラディン氏は、アフガニスタンにおける保護者で政権の座にあるタリバーン市民軍によって、攻撃前に安全な場所に移動していた。彼らは東アフリカ爆破事件について無実であるという反論を示した。合衆国のトマホーク・ミサイルが山腹のキャンプで吹き飛ぶ数時間前、ビン・ラディン氏のスポークスマンが衛星電話で、彼の事件について弁護するため――そして、弟子たちにアメリカ人とユダヤ人に対する闘争を実行するよう勧めるため――、パキスタン人ジャーナリストに電話をしていた。

しかし、ワシントンは、これらの攻撃とそれ以前の別の場所での合衆国権益に対する作戦に参加していたと白状して、一週間前ケニアに引き渡されたパレスチナ人容疑者モハメド・サディク・ホワイダー(Mohammed Sadiq Howaidah)の背後に彼がいると信じようとはしていなかった。

他の2人の容疑者――ホワイダーとともに旅行し、爆破当日にさらに4人とカラチへ向かった――は、カイバル峠を超えてアフガニスタンに逃亡しようとしているところを逮捕された。

先週の水曜日、合衆国国務省は――急襲に先立つ用意として――国際的援助機関はアフガニスタンを離れるよう促していた。しかし、約27人の国連職員と少数の現地援助者、ジャーナリストはとどまっており、昨晩、彼らが報復の標的になるおそれもあったのである。

ビン・ラディンは、ソ連侵攻に対するジハードとして、アラブその他のイスラム諸国からの数千人の義勇軍の一人として、1982年にアフガニスタンに到着した。アフガン反乱の基地であるペシャワールのパキスタン人の町に群れ集った他の冒険志願者たちと違って、彼は3億ドル(1億8700万ポンド、450億円)の個人資産を持っていたため、レジスタンスでの主力となった。

彼はその後、4000〜5000人のアラブ人の崇拝者を作り上げ、1989年のアフガニスタンからのソ連撤退後も残った。

アフガン戦士のCIA投資のためのパイプとして活動したパキスタン諜報機関員は、ペシャワールの300万人の避難民に気前よく寄付した有名な人物として彼を覚えていた。

「彼は特徴的な人物で、みかけもよく、背が高く、やせていて、黒い大きな目を輝かせていた。そして話すのが見事で、話し上手だった」と、アフガン戦争中にパキスタンの国際関係諜報機関長だったハミド・グル(Hamid Gul)少将は語る。

しかし、ビン・ラディンは当時、アラブの義勇軍とペシャワールに本拠地を置く組織では主要人物として知られていなかった。その名誉は、アフガン・レジスタンスを促進することに長年身を置いてきた知的なパレスチナ人、アブドゥラ・ユスフ・アザム(Abdulla Yusuf Azzam)に与えられていた。

ハワイダーは、パキスタン人逮捕者に先週、ビン・ラディンは1989年にアザムの暗殺を命じた、と述べたという。彼は、アザムがCIAのエージェントだと信じていたためである。

しかし、パキスタンのエスタブリッシュメントに属するグル少将その他のイスラム教徒と、ここで活動しているイスラム教徒グループの地下ネットワーク内では、ビン・ラディンは軍事的な役割を超えた価値を持っている。グル少将は、195年にスーダンにいたビン・ラディンを訪ね、賛美者であり続けた。「彼は反抗のシンボルであったので、イスラム教運動全体の人気者である」

ビン・ラディンは最低2回の出来事で傷ついたが、ソ連軍との戦争への主な関与は、エンジニアとしてであった。「オサマはトンネルづくりの専門家として天性のエンジニアだ」とグル少将は述べる。山腹を水平に掘っていったトンネルは、モジャヘディンによって兵器倉庫として使われた――ビン・ラディンはアフガニスタンにいくつか作ったと信じられている。彼はまた、舗装されていない道路もつくり、これはパキスタンからの補給路として使われた。

ホスト(Khost)の町を囲む低地の不毛な丘と川にあって、よく隠され、厳重な警戒を行なった訓練キャンプに、ビン・ラディンはアラブ義勇軍を召集した。

彼は少なくともあと二つ、アフガン戦士のキャンプを運営していると信じられている。

戦略的進歩は別として、そのキャンプはビン・ラディンの相当の武器によって守られてきた。彼はアフガニスタン中の至る所に、地対空ミサイル、迫撃砲、ロケット弾、戦車などの武器を蓄えてきた。

ビン・ラディンはソ連撤退後もアフガニスタンから去ったが、1996年に戻ってきた。タリバーンがホストの管理権を手にしたとき、彼は財産を使い、エンジニアとしての技能を再び使うことになった。

アフガニスタンの統制のためのタリバーンの戦いに喜んで出資したため、市民軍は負債を負った。水曜日、彼らはビン・ラディンがアフリカの爆破事件と無関係であると述べ、支援し続けると述べた。

「世界中の国々が結束しても、我々はオサマを我らの血をかけて守る」と、タリバーンの最高指導者ムラー・モハメド・オマル(Mullah Mohammed Omar)はアフガン・イスラム通信社に、カンダハールの要塞から伝えた。

ビン・ラディンは昨年、ホストからカンダハルに移ったと信じられている。そこには彼の4人の妻と快適な環境のために大邸宅を建てていた。

昨年2月、彼はアメリカの権益に対するファトワを発行し、そのためにイスラマバードにある合衆国大使館は、コンクリート防塞で警備を強化することになった。

 

HOME > Terro

【テロリズム】国際テロリズム テロ組織の類型
【対テロ】反テロイニシアチブ演説
【テロ組織】海外テロ組織1999年 詳細 オサマ・ビン・ラディン
【対テロ組織】日本SAT SIT SSTアジア・オセアニア 中東・アフリカ イギリス ドイツ フランス イタリア オランダ スペイン その他の欧州諸国 ロシア旧KGB系 ロシア内務省系 アメリカ合衆国 南北アメリカ諸国

オサマ・ビン・ラディン特集
■アメリカ大使館テロへの報復ミサイル攻撃
【経緯】・カウントダウン復讐憤る中東エリツィンヨーロッパ
【公式発表】・クリントン大統領国防長官と統合参謀本部議長国民への演説
【疑惑】・タイミング動機情報の混乱
【オサマ・ビン・ラディン】・第1の標的CIAの関わり
【化学兵器工場?】・薬品工場隠そうとしないクリントンは知っていたVXガス
【アフガニスタン】 ・新しい戦争ミサイル
■オサマ・ビン・ラディン
【アメリカ脅迫】・脅迫時間があるか?98年2月の「ファトワ」全文
【ABC独占インタビュー】・会いにいくインタビュープロフィール事件一覧米軍基地
【評論】・富+過激論
叛乱オンライン