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オサマ・ビン・ラディン情報

Osama (Usama) bin Ladin(Laden)
 

ABCNEWSより。

 

山を越えて、ガンマンをやり過ごし
テロの資金源に会う

Afghan and Pakistan map
わたしたちは、パキスタンへ飛び、小さな北の町バンヌへ、それから国境へトラックで登った。そこでわたしたちは夜陰にまぎれて歩いて山を越えていった。 (ABCNEWS.com)

 

John Miller
ABCNEWS.com
ニューヨーク、6月12日 ――もし彼が望まなければ、わたしたちは「世界で最も危険なテロリスト」を発見していなかっただろう。オサマ・ビン・ラディンは伝えるべきメッセージを持っていた。彼はアメリカ人がそれを知り、恐れてほしがっている。
専門家はよく言う。テロは劇場だと。スポットライトの中にいなければ、聴衆に感動を与えることはできない。わたしたちはテロリストに舞台を与えることについてABCNEWSを批判する電子メールを数多く、ここ数日受け取っている。

 しかし、ビン・ラディンの脅迫は信頼できるものとなり、国務省は中東を旅行するすべてのアメリカ人に警戒するよう警告した。わたしたちの見地からすれば、彼は大衆が知る必要のある人物である。

 

●国境を越える

 彼のキャンプに至るために、わたしたちはある接触者とともにパキスタンの最北端の町に旅行した。彼はわたしたちを3日間かけて、ビン・ラディンのためにチェックした。アクラムと自称するこのエージェントは、わたしたちの装備を点検し、質問をし、信任状を確かめた。西洋人がほとんど旅したことがない地域に入っていると言われた。そして、伝統的なイスラム教の衣服を着るように言われた。
 国境の手前の最後の町で、アクラムは長い髭とターバンの老人に会った。彼は責められているようだった。わたしたちは裏口を通って、老人の家の後ろの壁で囲まれた中庭に追いやられた。
 中には、カラシニコフ機関銃が壁にかけられていた。戦車と手榴弾を図示するポスターがあった。わたしたちは食事を与えられ、眠れるなら寝るように言われた。アフガニスタンへの旅は何時間もかかるだろう。わたしたちは夕暮れに出発することになった。

●タリバーンを避ける

アクラムは、国境に向かったのと同じトラックの後ろにわたしたちと乗ったが、別の人たちもいた。国境はタリバーン市民軍に統制されている。タリバーンは生き物をビデオ撮影することを禁じており、さらに厄介なことに、ビン・ラディンにこれ以上公式声明をさせたくないと言っていた。
 わたしたちのカメラ装置を運ぶためにトラックが必要で、選択が与えられた。ドンがベールをかぶり、トラックの後ろで女性の旅行者に変装するか、闇の帳が下りた山々を歩いて、アフガン国境監視者に見られないように進むか。歩いて超えることが、成功率が高いと思われた。
 わたしたちのガイドは、何マイルにもわたって乾いた河床へと導いた。1時間半後、わたしたちは最後の丘を下った。わたしたちは今、アフガニスタンにいた。わたしたちの装備を積んだトラックは、山の下で待っていた。

●執拗な攻撃

 わたしたちは何時間も岩ばかりの谷を進んだ。道に似たようなものはなにもなかった。わたしたちはビン・ラディンのいくつかのチェックポイントで止められた。わたしたちのカメラ機材は取り上げられた。ビン・ラディンのメンバーは、すべての装備を内も外もチェックしようとした。彼らは、わたしたちの装備を心配していると言った。隠された発信機で、ビン・ラディンの場所を空襲でピンポイント攻撃できるというのだ。ひじょうに疑い深い人たちだった。
  二日間、わたしたちはキャンプの兵舎で待った。わたしたちは床に毛布で寝た。それから、第2夜、ビン・ラディンが会うと告げられた。カメラマンのリック・ベネットと通訳と私は、無蓋小型トラックの後部座席に乗り込んだ。会ったことのない二人の男が運転していった。後部窓は暗く着色されていて、窓を上げておくように命ぜられた。どこに行くかを見られたくないのは明らかだった。
 わたしたちは3時間、道を、河床を来るまで走った。数マイルごとに、イスラムの服装の人が背後の岩から飛び出し、銃を指さしてトラックを止めるように命じる。運転手は、進路を開けさせるための通過証を忘れていた。チェックポイントごとに、彼らはビン・ラディンの基地に無線で相談していた。

●突然の発砲

 さらに数マイル山を登ると、わたしたちの上から機関銃が発砲された。着色ガラスをとおしてわたしが見ることができたのは、二つの兵器からの銃口のきらめきであった。心はこんな瞬間には駆けめぐる。だれが撃っているのか? なぜ? 弾丸は車に当たるのか?
 金属衝撃音は聞かなかった。ガラスも割れなかった。わたしは窓の線より少し下に下がろうとしたが、わたしたち3人が後部座席に押し込まれており、カバーする余地はなかった。50発を数えただろうか。わたしの心は粉々になった。
 しかし、わたしが見上げたとき、運転手とそのパートナーはまっすぐに座っていて、窓の外を見ていた。彼らは心配していないようだった。わたしは落ち着いて座った――それは単なる威嚇射撃だった――別のチェックポイントへ。彼らは無線を聴いていなかったので、わたしたちに驚いたのだ。それから彼らはわたしたちをおどかした。彼らは窓を通して銃倉を押し、目に閃光を光らせた。別の無線が鳴り、わたしたちは丘の上に行くように言われた。

●ついにビン・ラディンがあらわれる

 わたしたちがついて数分後、ビン・ラディンが到着した。彼の4輪駆動トラックに挨拶するため、真夜中の空に数百の曳光弾を打ち上げた。「彼が着くときには、いつも大騒ぎなんだ」とビン・ラディンの補佐官の一人が言った。
 わたしたちは、インタビューへの条件として、16の質問のリストを提出していた。ビン・ラディンは、その質問すべてに答えると言っていた。最後の数分に、わたしたちは、追加質問はしてはならず、ビン・ラディンは答えを同時に翻訳させないといわれた。わたしたちはニューヨークでそれが翻訳されるのを待たねばならない。ビン・ラディンがアメリカ人を棺桶で故郷に送り返すことを誓っているが、その一方でわたしたちは彼の誠実さを見ている。わたしたちは彼が言っていることはわからなかったし、翻訳者がインタビュー後に翻訳をくれるまでわからなかった。
 山を下りて戻ったときには夜明けだった。わたしたちは数時間、国境まで運転していった。わたしたちは乾いた不毛地帯を歩いて超えた。パキスタンに戻り、わたしたちは老人の家に戻った。彼はバンを手配して「世界で最も危険な男」のテープと一緒に、わたしたちをイスラマバードまで送ってくれたのだった。

 

 
このシリーズ
ビン・ラディンの巣窟への旅
オサマ・ビン・ラディン訪問
インタビューの起こし
ビン・ラディン――テロ銀行家、民族のヒーロー、追放者
攻撃に備える

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